パテ社の伸張とゴーモン社

 数の面で市場の需要に応えていたフランスのパテ社は拡大を続けていた。売上は年々増大し、すでに世界最大の映画会社となっていた。系列会社を設立して撮影機・映写機の製造も行った。1902年頃まで、フランスではゴーモン社製の映写機が主流であったが、パテ社が映写機の製造に力を入れたために、ヨーロッパやアメリカではパテ社の映写機が主流となっていた。パテ社は、まさに市場を独占する勢いだった。1904年にはモスクワやニューヨークにも支社を設立し、アメリカのニュージャージーに撮影所も設立。アメリカでの映画製作も開始した。

 この年、映画製作の責任者だったフェルディナン・ゼッカがシャルル・パテと喧嘩別れして、短期間だがゴーモン社に移籍している。だが、すぐにゼッカとパテは和解し、ゼッカは再びパテ社で映画製作を始める。この頃になると、パテ社にはゼッカのほかにリシュアン・ノンゲ、ガストン・ヴェル、アンドレ・ウーゼといった監督たちも活躍をしている。

 この年に撮影された主な作品は再現されたニュース映画「日露戦争の光景」シリーズ、恋愛が大きな要素として登場した最初期の映画「愛のロマン」といった作品がある。また、喜劇映画の分野ではゴーモン・ブリティッシュ社の「密猟者の必死の逃走」から想を得た「密猟者」シリーズ(「密猟者の娘」(1904)「密猟者ルージェ」(1905)「密輸摘発犬たち」(1906)「小さな密猟者たち」(1908))が作られている。

 一方、ゴーモン社はこれまで再現された実写映画、ドキュメンタリー映画を製作しており、アリス・ギイが担当していた演出された作品はそれまで少なかったのだが、1904年から演出された映画を多く作り始める。

 また、ゴーモン社もこの年、モスクワに総代理店を設置している。