イタリア、デンマーク(1907)

 カルロ・ロッシ社は、フランスのパテ社から演出家シャルル・レピーヌらを引き抜いて、パテ社の作品を模倣した作品を製作していた。このことにパテは怒り、「秘守義務違反」で告訴、レピーヌを数ヶ月投獄させている。レピーヌが出獄した後、入社したばかりのジョヴァンニ・パストローネ(後に「カビリア」を監督)がレピーヌから映画撮影について学んだという。

 その後、レピーヌらはカルロ・ロッシ社から他社に移ってしまい、カルロ・ロッシ社は解散することになる。パストローネは他の人と共に「シャメンゴ・エ・パストリーネ社」を設立している。一方で、カルロ・ロッシはチネス社へ移籍、ロッシのかつての仲間ランベルト・ピネスキは弟のアゼリオと共に、ローマでピネスキ兄弟映画製作会社を設立している。

 イタリアのアンブロージオ社は、イギリスで製作されヒットした「ローヴァーに救われて」(1905)を真似て、犬が登場する作品を製作している。

 アンブロージオ社と並ぶ、二大製作会社のチネス社では、マリオ・カゼリーニが演出家として活躍を始めている。カゼリーニは、史劇を多く作った。ローマ時代物、中世十字軍、フランス革命、イタリア統一戦争、イギリス王朝物、シェイクスピア作品、ジャンヌ・ダルク、ボルジアといった有名女性の映画化などを行った。後に夫人となるミラノのスカラ座専属バレリーナであるマリア・ガスペリーニと、名優アムレート・ノヴェッリを出演者に得たことも幸運だったと言われている。

 他にもイタリアでは、トリノで有力会社となるオットレンギ社(同年10月にアクイラ・フィルム社に改称)などの映画製作会社が設立されていた。1907年の終わりにはイタリア全土に9つの製作会社、500以上の映画館、年間収入1,800万リラの盛況を見せていたという。製作会社のトップに立っていたのは、アンブロージオ社とチネス社だった。

 一方で、イタリアには、外国の映画会社も入り込んできていた。イタリアの製作、配給、興行の中では、外国勢の支援を受けた配給会社の力が最も強かったと言われる。製作会社は外国勢に対抗するために、1907年に映画ユニオンを作って、上映プログラムの調整、製作会社への適正本数の供給の申し入れなどを行った。

 デンマークでは、昨年誕生したノーディスク社が「白熊狩り」(1907)という作品を製作してる。ドイツのハンブルグの動物園から白熊を買い、氷上で射殺させ、その様子を撮影したものである。センセーションを呼び、ノーディスク社の主宰者であるオーレ・オルセンは大金を得た。ちなみに、1909年に、ノーディスク社のトレード・マークは白熊となっている。

 オルセンはさらに、「ライオン狩り」(1907)を製作し、ヒットを飛ばした。ヨボヨボのライオンを買ってきて、射殺する様子を撮影したものである。ロケ撮影による自然さやエキゾティズムがあったが、皮を剥いではらわたを取り出す様子が撮影されていたことから、デンマークの司法省は上映を禁止したという。他にもオルセンは、「白人女奴隷」(1907)といった作品を製作している。

 ノーディスク社においては、オルセン自身は販売と全体の管理を行い、製作はオルセン以外の人物が務めた。最も重要な人物はヴィッゴ・ラーセンである。ノーディスク社の創業から1909年にドイツ映画界に去るまで、俳優・監督として活躍した。白熊もライオンもラーセンが撃ったという。

 ノーディスク社の撮影所は、書割のセットを建てるための空き地といった程度のもので、安上がりにすませるためにロケ撮影が多く行われた。三木宮彦は「北欧映画史」の中で、次のように書いている。

 「皮肉なことに、これが北欧映画にリアリズムの伝統を与えた。光の少ない北欧で屋外撮影の美学が成立したのは、これまた皮肉な話だが、彼らにはそれがいちばん自然だったからとしかいいようがない」

 デンマークにおいて、映画製作を行うライバル会社が登場したが、現像か販売の段階でノーディスク社を通過させざるを得なく、オルセンの地位は揺るがなかったと言われている。