ロシア、ドイツ、スペイン、イギリス(1907)

 ロシアではこの年、アレクサンドル・ドランコフによって、ロシアで最初のスタジオがサンクト・ペテルブルグで開設されている。

 ドランコフは、ロンドンから最新の撮影機器を借金をして購入して、ニュース映画を撮影していた。また、ロンドンの「タイムズ」紙特派員の資格を取り、国会の常勤カメラマンの権利も得て、内務大臣ストリピンを撮影したりした。そんなドランコフは、プーシキン原作の「ボリス・ゴドゥノフ」映画化を計画も失敗に終わった。

 また、ハンジョンコフという元々配給業者だった人物が、この年から製作者となり、ハンジョンコフ社が設立されている。ハンジョンコフは、喜劇「ガロチキンとパロチキン」(1907)を製作している。

 このロシア国内の動きに対して、それまでロシア国内のスクリーンを独占していたパテ社は対抗し、ロシアで映画を製作するために監督を派遣している。

 ドイツではこの年、メスター社のフレーリヒが100メートルを超える作品を製作している。メスカー社の映画製作本数は、年間45本にまで達していた。また、メスカー社はパテ社に映画を輸出していたが、パテ社にとっては小さな存在だった。音付き映画の興行も行っていたが、この分野ではゴーモン社と協定を結ぶ必要があった。

 スペインでは、フランクトゥオッソ・ヘラベルトよるドキュメンタリー「サン・アントニオのお祭り」(1907)や、カタルーニャを代表する作家のアンヘル・ギメラーの作品を映画化した劇映画「低地」(1907)などが製作されている。

 イギリスでは、映画草創期から活躍したセシル・ヘップワースが、火災で撮影所を失うという不幸に遭っている。ヘップワースは、映画輸入業へと向かうことになる。また、ロバート・ウィリアム・ポール、G・A・スミスといった映画草創期に活躍した映画人たちも、製作から去っている。ちなみに、スミスが開発したカラー映画「キネマカラー」は、1907年から発売を開始し、一時人気を得るが、独占を意図して逆に普及しなかったという。一方で、イギリスでは、映画製作者協会が創立されてもいる。