フランス ありのままの人生

 フィルム・ダール社の破綻と共に、文芸映画は下火となっていった。ゴーモン社は文芸映画に代わって、
<ありのままの人生シリーズ>をこの年から売り出した。中心人物は、ルイ・フイヤードで、アメリカのヴァイタグラフ社の作品を参考にしつつ、フランスの自然主義を取り入れたといわれる。

 フイヤードが<ありのままの人生シリーズ>を開始した理由は、ゴーモン社のボスであるレオン・ゴーモンが製作費の削減を求めたからだった。それまでフイヤードは歴史や宗教や神話に題材を求めていたが、舞台装置や衣装などに費用がかかっていたのだった。現代を舞台にした<ありのままの人生シリーズ>は、比較的低予算で済んだのだった。

 「腹黒い人たち」(1911)が第一作として発表されたが、あまり興行的に成功しなかった。

 <ありのままの人生シリーズ>は、フイヤードが脚本を考えたが、ゴーモン社が認めるブルジョワ的な価値観の範囲内の作品となった。題材は、恋愛ドラマと世俗的な良心の問題に限られており、広大なアパートを舞台に、派手に着飾った婦人たちと富裕な男たちの間のドラマだった。また、舞台装置は同じものを使いまわしたという。

 このシリーズは、以後、大当たりすることなく1913年まで作られていく。

 ゴーモン社に対抗してパテ社では。パテ社の製作責任者だったフェルディナン・ゼッカが、ジェラール・ブールジョワに「あるがままの人生シリーズ」を作らせた。ブールジョワは、元はリュクス社の芸術監督で、あらゆるジャンルの映画を演出しており、1911年に歴史劇映画の監督としてパテ社に雇われていた。

 第一弾は、「アルコール中毒の犠牲者たち」(1902)の新版のである「可憐の家庭」(1911)で、アルコールが原因で破滅する家族を描いた。書割の舞台装置は真に迫っていたが、シーンはぶっ続けで撮影されていた(パテは撮影を長引かせる恐れがあるとして、クロース・アップやバスト・ショットを認めていなかった)。それでも、ブールジョワは、俳優たちをカメラの近くに前進させることで、クロース・アップやバスト・ショットの効果を上げ、画面の深さを感じさせたという。また、俳優の演技も良かったという。

 ブールジョワはこの後、「ある貧しい娘の物語」(1911)などを製作した後、1913年にハリー・ヒッグス映画社へ移り、1914年には軍隊へ入ることとなる。
 
(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。