イタリア映画の栄光

 イタリアは、順調に映画を製作していた。

 文芸映画の分野以外では喜劇が順調だった。アクィラ社による、アルマンド・ジェルソミーニ出演のジョリクールのシリーズ、チネス社によるフランスの道化師フェルディネン・ギヨームが演じる「トントリーニ」シリーズなどが人気を呼び、1911年にイタリア喜劇は絶頂期を迎えていたと言われている。だが、喜劇役者の多くはフランス人で、フランス喜劇を質的に越えるものではなかったとも言われている。

 現代劇、ブルジョワ・ドラマの分野でも、チネス社からアンブロージオ社へと移籍したマリオ・カゼリーニが「罪に向かって」「貧しい青年の話」「ニトウケ嬢」「信心家の乙女」(1911)といった作品を製作し、以後も作品を発表していくことになる。その他にも描く映画製作会社は、現代的な作品を製作するようになった。

 現代劇、ブルジョワ・ドラマの主要なものは恋愛ドラマだった。身分の差による悲劇、不公平に対する同情や怒りがメロドラマ調で描かれるというものが多かった。モチーフとしては、金持ちに誘惑されて捨てられる娘、父なし児を産む若い母、孤児、無罪の青年、復讐物語などといったものが上げられるという。現代劇やブルジョワ・ドラマは他国にもあったが、イタリアの特徴は「情熱的な国民性に根ざす激しい感情のほとばしるところ」(吉村信次郎「世界の映画作家32 イギリス映画 イタリア映画)だと指摘されている。

 1911年は、アンブロージオ社が作家・劇作家のダンヌンツィオと独占契約を結んだ年でもある。映画化第一作は「ヨリオの娘」(1911)で、以後1911年だけで6本のダヌンツィオ作品を映画化されている。脚本は全てアルリーゴ・フルスタが担当し、撮影は「船」を除いてジョヴァンニ・ヴィトロッティが担当した。

 当時のダンヌンツィオはブルジョワに好まれた恋愛悲劇の現代劇の流行作家でもあり、「ある意味では無声映画時代のイタリア現代劇の創始者といえるかもしれない」(吉村信次郎「世界の映画作家32 イギリス映画 イタリア映画)と指摘されている。現代劇の主人公はブルジョワや貴族で、映画の主要観客の中産階級の人々は好んで見たのだという。 

 イタリア映画が得意としたスペクタクル映画でも、ミラノ社が「地獄篇」(1911)を、ジョゼッペ・デ・リグオーロの監督で製作している。大スペクタクルの叙情性と独自性に満ちた作品で、トリック撮影も行われていたという。ミラノ社は貴族の管理下にあり、リグオーロは貴族を主題として扱い(時には貴族にも出演してもらい)、作品を製作したという。

 チネス社は、不況の波から一時期経営が悪化していたが再建し、300万リラに増資して、1911年からの最盛期の基礎を作った。週に劇映画1本、喜劇1本、笑劇2本、実写2本の提供を興行側に約束する一方で、生フィルム製作工場を設立。パリ、ロンドン、バルセロナ、モスクワ、ベルリンに支店を設立、ニューヨーク、南米各都市、シドニー、横浜などに代理店を広げた。また、後にフランチェスカベルティーニ主演作を監督するバルダッサーレ・ネグローニが、カメラマン・脚本家としてチネス社に入社している。ナポリ方言演劇の俳優だったジェンナーロ・リゲッリは、1911年に監督としてチネス社に入社し、マリア・リゲッリ主演作を手がけている。

 イタラ・フィルムはこの年、ポンテ・トロンベッタに大撮影所を建設している。サヴォイ社では、女優マリア・ヤコビーニがトップ・スターとして活躍した。ヤコビーニは、1910年にイタリア芸術映画社から映画界入りしていた。

 イタリアにおける映画機械の開発者として知られるヴィットリオ・カルチーナはこの頃、フィルムの製作過程における単純化という技術改良に向かっていた。1911年には「チネ・パルヴュス」という機械を完成させた。35ミリを半分に縮小するもので、焼き付け、パーフォレーション、映写、巻き取りの4つの装置から成立していた。商品化の話もあったが、第一次大戦勃発でご破算になったという。

 当時のイタリア映画の順調さを示すことの1つして、1911年に開催されたトリノ・エキスポがある。イタリア統一50周年記念の一環という意味も持っていたこのエキスポでは、各国のパヴィリオンで様々な映画が上映された。また、エキスポと平行して、国際映画コンクールも開催された。

 国際映画コンクールは、芸術、科学、教育の三部門からなり、1位には2万5千リラの賞金が与えられた。世界的な反響を呼び、各国から参加があった。選考委員会には、映画開発者として知られるルイ・リュミエールや、フランスの著名な写真家ポール・ナダルなどが選ばれた。

 映画コンクールの芸術部門1位はアンブロージオ社による「金婚式」(1911)が選ばれた。脚本アルリーゴ・フルスタ、監督ルイジ・マッジによる「金婚式」は、1859年の統一戦争のパレストロの戦いを映画化したものだだった。イタリア軍が、オーストリア帝国軍を破った闘いで、映画におけるナショナリズムの影響が見られるとも言われる。撮影を担当したのはジョヴァンニ・ヴィトロッティで、老夫婦の過去の事件をフラッシュ・バックを使って効果的に表現したという。

 イタリア映画の成功は、1911年の春に、アメリカのヴァイタグラフ社エジソン社、エッサネイ社などがヨーロッパ映画(中でもイタリア映画)のボイコットしたということにも現れている。イタリア映画は、外国によく売れたため、外国向けに結末を変えるということも行われた。例えば、トリノのアクイラ・フィルムは、ロシア向けには悲劇的に、アングロ・サクソン向けにはハッピー・エンドにといったように結末を変えた。一方で、映画にする題材が不足し、コンクールで募集することが流行したりもした。

 イタリア映画は国際的に成功を収めていたが、問題がないわけではなかった。ジョルジュ・サドゥールはこの頃のイタリア映画について「世界映画全史」の中で次のように述べている。

「古い文化と、芸術上の優れた伝統をもつ一つの国が、完全に第一線に移るには数年で充分だろう。だが、イタリアの素晴らしい大建造物は、国内興行の貧弱さという不安定な砂の上に築かれており、フランス映画以上に外国の買い手の好意に依存し、豪華絢爛な超大作を提供した国々で発達した企業の反撃のなすがままになるのである」(P167)



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。