ロシアの映画製作

 ロシアでは、トルストイを撮影したフィルムを公開するなどの活動を行っていたドランコフが、演出作品の製作を放棄し、ニュース映画へと向かった。また、ロシアで映画を製作していたフランスのゴーモン社も、この年ロシアでの劇映画の製作を中止している。

 ロシアの会社であるハンジョンコフ社は、ロシア初の長篇劇映画「セヴァストポリの防衛」(1911)を発表している。この作品は、ハンジョンコフとゴンチャロフが共同で監督した作品で、美しい映像が売り物だったといわれている。

 歴史映画、戦争スペクタクルの「セヴァストポリの防衛」は、ロシア=トルコ戦争が題材となっている。トルコ・イギリス・フランス軍によって、1854年にロシア軍が包囲された出来事を映画化している。年代と日付入りのセミ・ドキュメンタリースタイルで、実在の人物のそっくりさんが登場したという。今に名を残す将校のコルニーロフを、イワン・モジューヒンが演じている。当時の政府・軍部の全面的な援助で大掛かりな戦闘シーンを見せ、最後にはロシア軍の撤退のシーンのあと、記念碑や銅像の建つ戦跡地のシーンが描かれている。ここでは、ロシア、イギリス、フランスの戦闘参加者が実際に集うシーンを撮影した本当のドキュメンタリーとなっている。映画製作当時、三国は同盟関係にあり、当時の支配層が民衆の愛国心に訴え、同盟国への配慮も忘れていないという政治的な面も見られるという。

 帝政政府も映画をプロパガンダに利用し、この年、ハンジョンコフ社とパテ社がツァーリによる農奴解放50周年映画を製作している。また、トルストイ原作「生ける屍」(1911、V・クズネツォフ監督)も製作されている。

 この後ロシアでは、1912年9本、1913年31本、1914年17本、1915年44本、1916年74本、1917年57本と多くの長篇劇映画が製作されていく。製作された場所は、モスクワが90%。残り10%がペテルブルグ、キエフオデッサ、ヤルタの撮影所で製作されたという。活動していた映画会社には、ドランコフ社、ハンジョンコフ社以外にも、エルモリエフ社、ネプチューン社、ハリトーノフ社、ルーシ社などがあった。

 しかし、機材も上映作品も輸入に頼っていたと言われている。70の配給会社が全ロシア1045の映画館に作品を配給していた。配給会社はモスクワに18社、ペテルブルグに15社、その他に40社以上という割合だった。映画館は平均340席で、人口10万人に1館の割合で存在していたが、少数大都市に集中していた。また、1899年当時のロシア人の識字率は21%で、人々は字幕が不要な喜劇や冒険活劇に惹かれたという。だが、喜劇や冒険活劇はロシアの国産映画にはなく、自然とフランス映画、革命後はハリウッド映画の輸入が増えたという。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。