イギリスの映画製作

 イギリスでは映画興行が発展を見せていた。1911年には2〜3,000の映画館が存在していたといわれている。1914年には3,500〜4,500となり、この数は1950年と同水準で、ヨーロッパの映画興行の筆頭にあったという。イギリスは工業化されており、労働者が多くいたことも影響を与えたといわれている。ただし、映画館は小規模で、興行された映画はアメリカ映画が多かったという。

 興行の発展にもかかわらず、製作の分野ではイギリス映画は外国映画に押されていた。だが、この年からイギリス映画は復興の兆しを見せ始めている。

 1910年のスコット大尉の南極探検にカメラマンが同行して撮影を行った、1時間半の大作である「スコット大尉と南極へ」(1911〜12)が公開され、ヒットしている。

 また、すでに古参の映画製作者となっていたセシル・ヘップワースは、外国映画を公開した利益を元に映画製作を再開した。1911年から1913年にかけて、大衆的・ポピュリズム的な大メロドラマを製作した。だが、デンマーク映画のような豊かさを持たず、低予算の中で犯罪や探偵小説を利用したという。

 ヘップワースは、イギリス産のスター製造を意図したとも言われている。第一号はグラディス・シルヴァニという女優で、以後はコメディ・シリーズからクリーシー・ホワイト、アルマ・テイラーらの人気者を生み出した。さらには、「デイリー・ミラー」の美人コンテスト優勝者アイヴィ・クローズを抜擢したりもしたという。だが、イギリス産スターはハリウッドのような華麗さがなく、イギリスの観客はアメリカのスターに熱を上げたと言われている。

 各国で製作された文芸映画の分野では、1908年頃からイギリス国内の各社で製作されるが、あまり反響を呼んでいなかった。だが、ウィル・C・バーカーという人物が結成し、1909年にはイーリングに撮影所を建設していたバーカー・モーション・フォトグラフ社が製作した「ヘンリー八世」(1911)は反響を呼んだ。

 バーカーは、当時著名な舞台人だったサー・ハーバート・トリーと劇団員を強引に出演させた。当時、舞台の名優は映画に出演するのをためらったため、トリーには一日の出演で千ポンドを払ったと言われている。上映時間が1時間という長尺で興行者は渋ったが、バーカーが全プリントを6週間以内に焼却すると発表し、値が吊り上がったという。内容は、舞台を撮影するジョルジュ・メリエス的な作品だった。「ヘンリー八世」に出演した役者たちは、他の会社でシェイクスピア劇を出演し、多くの脚色ものと歴史映画が流行した。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。