D・W・グリフィスの活躍

 そんなMPPC社で最も勢いがあったのは、バイオグラフ社だった。その最大の理由は、トップ監督として活躍したD・W・グリフィスにある。

 グリフィスはこの年(1912年)、先史時代を描いた「人類の起源」や西部劇「虐殺」を製作している。また、ライオネル・バリモアとメアリー・ピックフォード出演の「ニューヨークの帽子」も製作している(ちなみに、当時はメアリー・ピックフォードがバイオグラフ社で1番人気だった)。

 そのピックフォードとグリフィスの仲はあまりよくなかったらしい。グリフィスは俳優同士を競わせることで、切磋琢磨させようとしたのと同時に支配しようとしたとも言われている。ピックフォードは「ディー砂丘」(1912)の主役を新人同様で演技経験も浅かったメイ・マーシュに奪われて怒り、一時的に映画界から離れ舞台に戻っている。

 ピックフォードにとっては、舞台こそが芸術的であり、映画は正当な役者が出演するものではないと思っていた。ブロードウェイの舞台に出演したピックフォードだったが、「映画スター」ピックフォードを見に来る観客の姿に、映画の力を再認識して再び映画界に復帰している(フェイマス・プレイヤーズに入社)。

 この年のグリフィスにおいて大きな出来事は、リリアン・ギッシュとドロシー・ギッシュのギッシュ姉妹が入社したことだろう。特にリリアンは後の「国民の創生」(1915)「イントレランス」(1916)「散り行く花」(1919)といった、後にまで名を残す作品群に出演していくことになる。ギッシュ姉妹は「見えざる敵」(1912)というグリフィス監督作で映画デビューを果たしている。

 「ピッグ・アリーの銃士たち」(1912)は、リリアン・ギッシュがヒロインとして出演した。ニューヨークでロケを行い、ドキュメンタリー・スタイルで撮られたメロドラマで、アイルランド系、イタリア系、ユダヤ系の人々が人種別にグループをつくり、組織犯罪へと発展していくという作品である。最初のギャング映画とも言われている。

 演出の面では、クロース・アップやカット・バックを効果的に用い、視点を移動させることはひとつの規則となり、グリフィスの映画に定着していた。この頃のグリフィスについて、ロバート・スクラーは次のように言っている。

「彼(グリフィス)はそれぞれの新しいテクニックがたんに注意をひく工夫ではなく、ひとつのしるしであり、コミュニケーションのひとつの方法であって、映画の内容をつなぐ鎖の環であることを理解していた。つまり、それらをはじめて動く映像の独自のスタイルとして完成したのである」(「アメリカ映画の文化史」)

 また、グリフィスは年々ライティングに配慮するようになり、1912年には明暗法の大家になっていたという。
一方で、グリフィスの作品は、実験を重ねるために製作費がかさむようになっていた。そのことを会社(バイオグラフ)側はよく思わず、グリフィスの邪魔をしようとしたという。また当時、バイオグラフ社の映画を作っているのがグリフィスであることは、大衆には知られていなかったが、ライバル会社はグリフィスの手法を真似していた。

 また、グリフィスは役者によりよい給料を払ってやりたかったが、会社(バイオグラフ)側が満足な給料を払うとは限らなかった。そこで、グリフィスは役者にストーリーを書かせて、それを会社に買わせるなどの便宜をはかったという。


(映画本紹介)

アメリカ映画の文化史―映画がつくったアメリカ〈上〉 (講談社学術文庫)

アメリカ映画の文化史―映画がつくったアメリカ〈上〉 (講談社学術文庫)

映画作品のみならず、映画とアメリカ社会全般を幅広く眺めた1冊。検閲という映画に大きく影響を与える事象についても触れられている。