フランス 文芸映画の長篇化

 フランスおいて作られてきた文芸映画は、徐々に長篇へと向かっていった。

 アメリカでアドルフ・ズーカーの手によって配給されて大ヒットする、サラ・ベルナール主演の「エリザベス女王」(1912)はロンドンで撮影されたものだが、上映に一時間かかった。また、大仕掛けな舞台装置、豪華な衣装も見所で、莫大な製作費がかかったといわれている。

 ミシェル・カレは、1912年にスカグル社を去り、ウィーンでマックス・ラインハルトの「奇蹟」(1912)を映画化している。製作費をかけ、当時としては長い2000メートルの作品となった。ロンドンでは成功したが、フランスでは上映されなかったという。

 アルベール・カペラーニも長編に向かった。「パリの秘密」(1912)は、1500メートルあり、「嗚無情」(1912)は、全体で4時間の上映時間を要した。世界中、特にアメリカで興行的に成功した。有名な題材の映画化の利点を証明したと言われている。サドゥールは「世界映画全史」で次のように書いている。

「この当時、映画の宣伝は、俳優たちの名よりもはるかに作家たちの名に向けられていた。監督たちに関して言えば、彼らは匿名のままだった」

 だが、フランスの文芸映画は大きく見ると失敗だったとジョルジュ・サドゥールは語っている(「世界映画全史」)

「文芸映画シリーズは、パリよりも外国で最良の発展を見た。フランスでは、狭い国内市場と製作費を惜しむ大会社とが、その発展を阻んだ。偉大な俳優を抱え、大きな主題に取り組むためには、こうした製作に多くの費用をかけなければならないだろう。ところが、これらの予算は貧弱でお粗末なものだった。『嗚無情』(1912)の原価(ネガ・フィルム1メートル当たり10フラン)は、ジョルジュ・メリエスの昔の夢幻劇における原価を下回っている。守銭奴や高利貸しに似たこうしたやり方が、新しい表現方法を袋小路に追いやったのである。
 ところで、1911年からイタリア映画やデンマーク映画、またアメリカ映画の脅威がはっきりとしてきた。フランス映画は、それに抵抗するため、文芸映画シリーズのために持っていた切り札すべてを出さなければならなくなった。フランス文学と演劇のレパートリーで最良の作品を手に入れること、(ほとんど100フラン以下の低いギャラの俳優とは違って)最も有名な俳優たちを雇うこと、監督たちが長いリハーサルを通して作品を仕上げるのを認めること、大掛かりな舞台装置と贅沢な衣装を使うこと、こうしたものが文芸映画シリーズに課された計画だった。しかし、予算を増やさないため、文芸映画シリーズの諸作品は、1メートルにつき最高10フランの製作費に縮小され、書き割りの舞台装置の前で<大急ぎで>製作され、三流役者たちによって演じられた・・・・。パリの映画製作が、1911年以降、その傑出した立場を失ったのは、何よりもフランスで生まれた表現方法を発展させることができなかったからである」


(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。