デンマーク映画

 デンマークの人気映画女優のアスタ・ニールセンは、ニールセン専門の演出家だったウアバン・ギャズと1912年に結婚している。2人はデンマークで3本映画を製作した後、ドイツのドイチェ・ビオスコープ社に向かい、ニールセンの人気は全ヨーロッパに広がっていくことになる。

 ニールセンが得意としたのは悲劇で、サドゥールはニールセンを評して「第一次大戦前の映画における、最も偉大な悲劇女優」(「世界映画全史」)と言っている。

 当時、デンマーク映画は人気を得ていた。当時の状況についてサドゥールは「世界映画全史」の中で、次のように言っている。

「久しい以前から、デンマーク演劇は鮮烈に光を放っていた。その俳優や劇作家たちは、全中央ヨーロッパ、スカンディナヴィア諸国、ロシアにおいて評判になっていた。デンマーク映画の発展は、ドイツ映画が不足していたこととロシア映画の開始が比較的遅かったために、容易になされた。主題の大胆さと新しさが、ノーディスク社を成功に導いた」

スウェーデン映画とは対照的に、デンマーク映画は特にコスモポリタンなもので、国民的特徴はあまり強調されずにいた。それらの作品は、スカンディナヴィア的性格というよりも、<中央ヨーロッパ>的精神に属している」

 そのデンマーク映画の特徴を表現するキーワードとして、「大胆な」風俗、「どん底」に生きる人々、センセーショナル、カタストロフ、風変わりな環境、「熱情」といったものが挙げられるという。また、唇と唇が扇情的に触れ合うデンマーク流の接吻は、スキャンダルを巻き起こしたたという。さらには、ヴァンプ(悪女)が登場するなど、ハリウッド映画と共通性を持っていた。

 そんなデンマーク映画を製作した演出家たちの代表格は、アウグスト・ブロムである。ブロムは、ノーディスク社の主要なスターを見出し、同時代のあらゆる演劇のジャンルを映画化した。その多くは上流社交界を描いていたと言われる。他にも、情熱的なドラマ、社会研究、探偵劇、エキゾチックな冒険(「ゼンダ城の虜」等)なども手がけた。非常に多作で、ノーディスク社の中心的演出家だった。もちろん、ブロム以外の監督による作品も多くあるが、ノーディスク社の製作本数は1912年には170本だったが、1913年には370本となっている。

 ホルガー=マッセンは、1912年頃には監督として活躍していた。女優リタ・サッチェットを見出し、美しい映像に興味を持ち、死と情欲を混ぜ合わせた「大胆な」主題を好んだ。スタジオを大いに利用し、セットでは人物の移動を移動撮影で追った。下から上への動きも使った。さらには、拡がりをもたせるために、鏡の中の光景が使用された(「交霊術師」では、同一場面における複数アングルのショットを用いた)。主題の大胆さから流行を作り、「アヘンの夢」はデンマークでは検閲によって上映禁止となったが、アメリカでは大ヒットした。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。