ドイツの映画製作

 ドイツでは1912年にトラストの設立が計画され、挫折している。

 フィアグ社が、ドイツにおいて公開されるすべての映画を手中に収めようとしたが、興行者たちの反対で挫折し、清算されている。また、パテ社が1912年に代理店を置いたことに対抗するために、製作会社、配給会社、興行社が提携したが、その提携も挫折した。トラストは成立せず、ドイツの映画界は分散状態にあった。

 そんな中、元々は映画チェーンだったD・K・G社(デーカーゲー社)が、1912年に映画製作を開始し、ケルンにスタジオを設立している。また、フランクフルトで誕生したP・A・G・U社(パーグ社)は、4万マルクの契約金でアスタ・ニールセンの独占権を得て、1912年にはベルリンのテンペルホーフにドイツ一の大スタジオを建設している。協力者には、ドイツの文壇・劇壇の著名人がいた。

 映画興行の面で他の国に遅れをとっていたドイツだったが、この年には映画館数は2,900館となり、遅ればせながらドイツ全国に映画が広がった。だが、イギリスやアメリカと比べるとその数は少なかった。

 当時、ドイツでは作家協会が会員に映画への協力を禁じ、演劇演出家協会が俳優の映画出演を禁じるなど、映画との間には障壁があった。だが、すでに有名な俳優は映画に出演しており、これらの決定は抵抗にあっていた。

 一方で、ドイツの知識人は頑迷に映画を否定したとも言われている。美学者コンラート・ランゲを中心に「映画改良運動」が起こり、映画の低俗性が攻撃された。知識人たちは、反道徳的な映画に大衆が悪影響を受けないように監視する必要があると説いたという。文芸作品の映画化に際しては忠実さを求め、登場人物が1人でも削られるとその作品をボイコットするということもあったという。

 初期からドイツの映画製作を支えてきたメスター社では、1912年に二巻もの、三巻ものの映画を作り、女優ヘンニー・ボルテンの大宣伝を始めた。ボルテンは人気を得るようになり、ベルリンの映画会社はスター・システムに突入することになる。

 映画製作は行われていたが、他国と比べるとドイツの製作力は微々たるものだった。1912年の8月15日から10月15日までの公開作はフランス映画260本、アメリカ映画242本、イタリア映画186本、ドイツ映画56本であり、外国映画の支配下にあったといえる。また、数は25本と少ないが、大スターのアスタ・ニールセン作品を中心としたデンマーク映画も人気を得ていた。デンマークのスタッフやスターは、しばしば招かれてドイツ映画に参加した。

 また、フランス・エクレール社のベルリン支社であるデクラ社は、エーリッヒ・ポマーのおかげで繁栄していた。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。