後の映画人たちの胎動 ロイド、トゥルヌール、ガンス・・・

 1912年には、後に映画人として名を上げていく人々が活躍を始めた年でもある。

 チャールズ・チャップリン、バスター・キートンとともにサイレント期の喜劇を支えるハロルド・ロイドは、1912年にエジソン社に俳優として入社している。

 映画監督として活躍するモーリス・トゥルヌールは、舞台から映画界入った人物で、1910年頃にはフィルム・ダール社とエクレール社で傍役で出演していた。1912年からは、助監督を経て、監督としてエクレール社で活躍している。

 後に「鉄路の白薔薇」(1922)「ナポレオン」(1927)を監督するアベル・ガンスは、映画の端役をやったりした後、パテ社やスカグル社で脚本を採用されたりしていたが、1912年に「恐怖の仮面」(1912)を製作している。少額の資本を集めて製作した作品だが、撮影は失敗し、端役や脚本家に戻っている。

 後に「裁かるゝジャンヌ」(1928)を監督するカール・ドライヤーは、1912年にデンマークのノーディスク社に入社している。字幕を書く仕事から、シナリオの校閲、脚本家となり、1912年には「ビール醸造者の娘」のシナリオを書いている。また、編集の仕事もしていたという。

 その映像表現を「ルビッチ・タッチ」と呼ばれるようになるエルンスト・ルビッチも、マックス・ラインハルトの劇団で役者から、1912年頃に役者としてドイツの映画界入りしている。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。