日本 日活の誕生

 1912年の日本映画界最大の出来事は日本活動写真株式会社(日活)の誕生である。

 1911年に、エム・パテーの梅屋庄吉を中心に設立された大日本フィルム機械製造会社が、エム・パテーを買収。続いて、浅草のルナパークと大阪の劇場を火災で失い、経営的に悪化していた吉沢商店を買収。さらには、横田商会と福宝堂の買収に成功し、トラストが成立した。大日本フィルム機械製造会社は、日本活動写真株式会社へと名前を変えて(「フイルム」の「フイ」が「フイにする」と重なっていたため、縁起を担いで名前を変えたといわれている)、9月10日に発足している。

 だが、すぐに不景気と、各社出身者たちの間の不統一から経営困難に陥り、重役陣に参加した財界の有力者たちにも見放された。もともと、日活の誕生は、よい映画を作ったり、輸入したりという動機から始まったものではなかったから当然といえば、当然だった。だが、興行場とストック・フィルムはあったので、当座の営業は支障がなかった。
財界人たちが手を引いた後で実験を握ったのは元横田商会のボスであった横田永之助だった。横田は映画をいかに安く撮るかを考え、カメラの回転の速度を遅くしてフィルムを節約したり、以前に作った作品のフィルムを大幅に流用して毎年新作として「忠臣蔵」を公開するなどの手法でコスト削減を図った。

 当時すでに大衆の人気を得ていた尾上松之助と松之助映画を監督していた牧野省三は、横田商会の作品を製作していたが、買収により日活に所属する形となっている。

 撮影所は、吉沢商店の目黒撮影所と、横田商会の京都撮影所をそのまま使用していたが、資金繰りがよくなかったため、京都への旅費や生フィルムの費用も出せくなり、従業員たちは仕事もなく撮影所付近にゴロゴロしていた。横田商会と吉沢商店は製作を続けたが、他社の従業員が加わったために能率が乱れた。

 日活は寄せ集めの会社だったため内紛が絶えず、特に吉沢派と横田派の対立が次第に表面化していった。

 そんな内情に不満を持った小林喜三郎が12月に退社し、常盤商会を起こしている。小林は福宝堂から日活の営業部に入った人物だった。「常盤」の名前は、旧福宝堂の直営館浅草常盤座から名前を取っている。小林は日活がなかなか映画が製作されない日活の状況に困っていた常盤座と提携して、常盤商会を設立したのだった。

 小林は、日暮里に天幕張りの仮ステージを急造し、映画製作を開始し、1週間で4,5本の映画を製作した。映画不足の日活の虚をつき、映画館に映画を提供したのだった。しかし、日活の依頼で一ヶ月で活動を休止し、小林は日活に戻ることになる。だが、小林はこのあと再び退社し、大阪の山川吉太郎の東洋商会と提携することになる。



(映画本紹介)

日本映画発達史 (1) 活動写真時代 (中公文庫)

日本映画発達史 (1) 活動写真時代 (中公文庫)

日本の映画の歴史を追った大著。日本映画史の一通りの流れを知るにはうってつけ。