イタリア ディーヴァの誕生

 イタリアでは史劇が多く製作される一方で、現代的な作品も多く作られた。イタリアの現代劇映画は三角関係の中で展開されることが多かった。その現代的な作品は女優の人気によって成り立っていた。彼女たちは、「ディーヴァ(女神)」と呼ばれるようになっていく。

 リタ・ボレッリは、1913年にデビューし、グロリア社の映画に出演した。リアリズムではない、舞台的な演技だが、魅力を放っていたという。1913年には「されどわが愛は死なず」(1913)に出演している。ボレッリは、ある国の皇太子が恋する娘を演じて大ヒット。存在が社会風俗まで影響を与え、ボレッリはディーヴァとなった初の人物と言われている。ボレッリの雰囲気はダンヌンツィオが好まれた当時の時代の雰囲気に合っていたのだという。監督は、マリオ・カゼリーニが担当した。

 グロリア社は、配給業者のドメニコ・カッツリーニがトリノに設立した製作会社である。製作担当にアンブロージオ社にいたマリオ・カゼリーニを招き、1913年から1916年まで毎年15本ほどを製作していくことになる。

 ボレッリと同じくディーヴァと呼ばれることになるフランチェスカベルティーニは、当時チネス社と提携していたチェリオ社の映画に出演しており、「女主人」(1913)で最初の成功収めた。監督を務めたバルダッサレ・ネグローニは、クロース・アップを体系的に使用したという。

 ネグローニは他にも、女優エスペリアと組んで3本の作品を監督し、私生活ではエスペリアしている。

 同じくディーヴァと呼ばれることになるニーナ・メニケッリもチネス社で「ロマンス」(1913)に出演している。監督はニーノ・マルトリオが担当した。マルトリオは、シチリア方言演劇から映画界入りした人物だった。

 喜劇の分野でもイタリア映画は活況を呈していたが、この頃になると、喜劇俳優の氾濫と似たような筋立てにより飽きられてきていた。イタリアでは、1913年を頂点に、喜劇俳優の名前は消えてしまったと言われている。その理由として吉村信次郎は次のように指摘している。

「もちろんその過程ではギャグの構成についての認識が深まり、またマイムの重要性が再確認され、リズムや映画的表現の技術の必要性などについても十分に知られるようになった。しかし結局それらのことを内面からにじみ出る深い人間性にあふれた演技で表現する者が誰ひとりとしていなかったために、おそらく、ひとりとして生き残らなかったのであろう」(「世界の映画作家32 イギリス映画 イタリア映画」)



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。