イギリスの文芸映画

 停滞していたと言われるイギリス映画は、1913年に多くの文芸映画を生み出している。

 「アイヴァンホー」(1913)は、芝居をそのまま撮影したものだったが、ブリティッシュ・アンド・コロニアル・キネマトグラフ社が製作した「ワーテルローの戦い」(1913)は、大人数の出演者と多くの馬が出演した。ヘップワース社の「ハムレット」(1913)は制作費をかけ、見事な城館を建築したという。

 これらの作品は、舞台の役者を出演させ、演技も舞台的な大げさであり、カメラも舞台を見るような視点で固定されており、面白みには欠けていたという。だが、著名な俳優の著名な舞台が映画化されることで、映画の地位は向上したといわれている。

 そんな当時のイギリス映画界は、バーカー・モーション・フォトグラフ社とヘップワースが2大映画会社として活躍していた。バーカー社の代表作にはメロドラマの「イースト・リン」(1913)や、ヴィクトリア女王の伝記を壮大なスケールで作り、3万5千ポンドの利益上げたという「女王の六十年」(1913)が代表作として挙げられるという。

 ヘップワース社の代表作としては、「ハムレット」「デヴィッド・カッパーフィールド」(1913)が挙げられると言われている。

 「ハムレット」は、著名な舞台人だったサー・ジョンストン・フォーブス=ロバートスンが出演した作品で、1万ドルの予算をかけた大作だった。ロンドンの劇場ドルリー・レーンの舞台そのままで、舞台にの引き写しだったという。シェイクスピア劇はしばしば映画化されたが、この作品のように舞台の引き写しだったと言われている。

 「デビッド・カッパーフィールド」は、チャールズ・ディケンズ原作の大作だった。モンタージュや大写しなどを活用し、自然の背景もうまく利用していたと言われている。

 初期のイギリス映画は演劇と文学に隷属し、製作者にとっては演劇と文学の社会的信用によるリスクの少なさが魅力だったといわれている。そのために、映画化においては、原作に忠実であることが大事で、イギリスではシナリオ・ライターに長い間独創性を要求しなかったという。また、コメディの分野でもミュージック・ホールの伝統芸をカメラの前で演じただけのことが多かったと言われている。

 興行主だったラルフ・テニソン・ジュップがトゥイクナムに巨大な撮影所を建造し、ロンドン・フィルムを創設して、映画製作に乗り出している。ロンドン・フィルムは製作・配給・興行のすべてを初めて保有するイギリス初の会社となった。

 ロンドン・フィルムはアメリカとの提携を進め、カール・レムリのIMPに資本投下と人材協力を仰ぎ、監督ハロルド・ショー、ジョージ・ローンを招いた。第一作はコナン・ドイル歴史小説「ロドニー石」の映画化である「テンパリーの家」(1913)であり、興行的に成功を収めた。

 当時のイギリス映画について、ジョルジュ・サドゥールは「世界映画全史」の中で、次のようにいっている。

第一次大戦が勃発した時、イギリス映画は新たに飛躍するかのようだった。ロンドンはパリよりも制作費をかけた演出作品を製作していたし、イギリスの古典やレパートリーをふんだんに利用することができた。だがそれでも、イギリス映画の芸術的な発展は、外国への依存、自分自身の製作力への不信、俳優や監督のコスモポリタン性によって損なわれていた」

 1913年は、ブリティッシュ・ボード・オブ・フィルム・センサーズ(英国映画検閲委員会、BBFC)が誕生した年でもある。BBFCは、映画界による自主規制組織である。それまでは地方当局がそれぞれ行っていた検閲を自主的に行う機関だった。

 BBFCは、映画を一般向けのUと、未成年鑑賞禁止のAに分類した。また、ヌードとキリストの描写は禁止し、それ以外は作品ごとに判定した。だが、映画の内容についてはしばしば問題となり、BBFCを通過しても地方当局がクレームをつけることが多かったという。また、ロンドンにおいては、BBFCの存在は1921年まで無視されていたと言われている。



(映画本紹介)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 (世界映画全史)

映画誕生前から1929年前までを12巻にわたって著述された大著。濃密さは他の追随を許さない。