「プラーグの大学生(DER STUDENT VON PRAG)」

 ドイチェビスコープ社製作。シュテラン・ライ、パウル・ヴェゲナー監督、パウル・ヴェゲナー出演。

 破産寸前の主人公は、正体のわからない男に自分の部屋のものを売り払い、代わりに大金を得る。だが、自分の部屋の中にあった鏡に映し出された主人公の鏡像が現実化し、主人公の前に現れ始める。

 静かだからこそ強調されるものがある。セリフがないからこそ強調されるものがある。この映画で強調されるのは、存在と非存在である。自らの欲望のために、自らの分身を売った男。たとえそれが自らの意思ではなかったにせよ、悪魔に魂を売ったのと同じことだ。1つのアイデンティティを持っていた男は、分身が実体化することによって、確固としたアイデンティティを失ってしまう。それはそうだ。もう一人の自分、自分の言うことを聞かない自分を持ってしまったのだ。アイデンティティが分裂しないほうがおかしい。アイデンティティが分裂した男は、もう1人の自分の存在に耐えられなくなる。

 しかも、もう1人の自分は静かに突如として現れる。1人の女性と会っているときにふっと現れ、自分の代わりに決闘相手をいつの間にか殺し、逃げる自分の前を常に先回りする。しかも、静かに突如として。この静かさはサイレント映画ならではのものである。効果音もない、セリフもない(あったとしても字幕である。観客には聞こえない)。静けさは、視覚を鋭敏にする。この映画のドッペルゲンガーであるもう一人の主人公はサイレント映画ならではの登場の仕方をする。そして、突如の登場と退場は映像ならではのトリックである。映像がほかのメディアではなしとげられない特権的な技のひとつである。その意味で、この映画はサイレント映画らしく、そしてそれ以前に非常に映画らしい映画である。

 という説明以上に、この映画を今見る価値があるだろうか。ドッペルゲンガーというアイデンティティを扱った主題、それを見せるテクニック。それ以上のものはこの映画にはないかもしれない。なんの教訓も、なんの説明もない。しかし、それでいいのだ。この映画は、画面上の人物を即座に登場させたり、消したりするというテクニックから発想された映画なのかも知れない。それを元にしてストーリーを組み立てたかのように映画向きの題材である。それは、見せたい何かがあって、ストーリーを作っていくという方法である。この方法は今では逆の発想といえるだろう。今は、語りたいストーリーがあって、それにあった演出方法を生み出していく。それ自体は悪いことではない。しかし、ストーリーばかりが重視され、ストーリーが先行する映画作りだけが優れているわけではない。あるテクニックをもとに映画全体を組み立てていく。そんな作り方が合ってもいいのではないだろうか(北野武監督が高校生2人が自転車で2人乗りして、校庭をぐるぐるまわるシーンから「キッズ・リターン」を組み立てていったのも通常の映画作りからいくと異例である)。

 映画は基本的に見るものだ。読み取るものである前に、語るものである前に見るものだ。「プラーグの大学生」という映画自体には、サイレント映画特有のうまさがあるにすぎないかもしれない。しかし、こういった映画を見ることによって、「映画は基本的に見るものだ」という大原則を思い出させてくれることがある。この映画は、ドイツサイレントの怪奇映画の先駆けとなった。それはまさに、映画は何かを見せることに適しており、しかも現実とは異なるものを見せることができるという特性を知り、現実とは異なるもの=怪奇なものという発想につながっていったのかもしれない。そう考えると、怪奇映画(非現実的な映画)ほど映画にとって適したジャンルはないような気がする。映画がストーリーを持ち出して、怪奇映画が流行になったのは決して偶然ではない。映画がこのジャンルに適していたからなのではないだろうか。



(ビデオ紹介)

プラーグの大学生 [VHS]

プラーグの大学生 [VHS]