トマス・H・インスと早川雪洲とハリウッド

 プロデューサーシステムを確立したといわれるトマス・H・インスは、大スターとなるウィリアム・S・ハートを前年に見出したが、この年には早川雪洲を見出している。

 早川は、サンフランシスコで「颱風」の舞台を妻の青木鶴子と出演しているところをインスに見つけられた(インスは先に青木鶴子をスカウトし、鶴子がインスに早川雪洲を紹介したとも言われている)。当時、インスは東洋劇を製作しており、日本人俳優を集めていたのだった。この年には、「火の海」「颱風」(1914)といったインス作品に出演している。また、青木と早川はこの年、結婚をしている。

 インスは、400人もの人々を自分の命令下におくこともあり、俳優集団もインスの敷地の周囲に集まっていた。当時、ハリウッドは映画製作の中心へとなっていたが、インスは他のどの独立系の映画製作者よりも、映画製作の中心をハリウッドへ移行するのに貢献したといわれている。

 ちなみに、「ハリウッド」の名は、ある女性が自らに幸福をもたらしたと信じていた柊の林(ハリウッド)を、自らの所有地にスコットランドから取り寄せて植えようとしたが、気候があわずに枯れてしまったという話に基づいているという。

 温暖な気候、カウボーイ・中国人・日本人・インド人などのエキストラの募集が容易で、近距離内に変化に富んだ風景があったという条件が映画製作に合っていた。

 ジョルジュ・サドゥールには「世界映画全史」の中で、インスについて次のように書いている。

「しがない俳優トマス・H・インスが、アメリカで最も偉大な映画作家の一人になるためには、3年あれば充分であった。1914年にはデイヴィッド・W・グリフィスとマック・セネットだけが、彼と比肩することができた。これら3人の男の才能によって、ハリウッド−彼らが築きあげた−は世界を制覇し始めることができたのであった」



(映画本紹介)

ハリウッドの日本人―「映画」に現れた日米文化摩擦

ハリウッドの日本人―「映画」に現れた日米文化摩擦

ハリウッドで活躍した日本人・日系人についての本。早川雪洲はなぜ、ハリウッドで活躍できたのか?早川雪洲以外にも活躍した人物はいなかったのか?なぜ、ハリウッド映画で描かれる日本のイメージは誤解されているのか?などなど、ハリウッドと日本の関係を掘り下げた1冊。