MPPCが映画にもたらしたもの

 MPPC(モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー)とは、1908年末に当時の大きな映画会社9社によって設立された団体のことである。9社とは、エジソン社、バイオグラフ社、ヴァイタグラフ社、ルービン社、シーリグ社、エッサネイ社、カーレム社、パテ社、スター・フィルム社である。

 MPPCの中心はエジソン社であった。エジソン社のボスは言わずと知れたトマス・A・エジソンである。エジソンは映画の撮影機と上映機の特許を保持していると主張していた。エジソンの主張に異を唱える人々も多くいたが、エジソンはそれらの人々を退け、映画の発明者の地位と特許権を保持していた。

 エジソン社は、その特許権を盾にして、映画を撮影したり上映したりする場合には、エジソン社に特許料を支払うことを各映画会社に要求した。そのエジソン社の要求に合意した形で成立したのが、MPPCである。
 

 ここで、「映画会社」というものを整理した方がよいだろう。映画会社と一口に言っても様々な種類があるが、一般的には「製作」「配給」「上映」という3分野を行う会社のことを「映画会社」と呼ばれる。

 「製作」とは、文字通り映画の製作を行うことである。映画を撮影することと言い換えてもいい。「映画会社」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは「製作会社」かもしれない。

 映画は複製芸術と呼ばれる。演劇やオペラなどは、生で行われる上演を見るという形式なのに対して、映画は作品の内容は1つではあるものの、オリジナルのコピー(複製)をわれわれは見るという形式となっている。演劇やオペラが上演されているそのとき限りの芸術であるのに対して、映画はコピーをしたものを見ることが前提となっているため繰り返し体験可能な芸術なのである。

 「配給」はそういった特色を持つ映画ならではの業務だ。製作会社が製作した作品は、ただそれだけでは観客の元には届かない。大量にコピーして、全国の映画館に配られる必要がある。もう1つ映画において特徴的な面として、映画作品は販売ではなく、レンタル制を取っているということだ。そのため、コピーされて全国に配られた映画は、その後回収される。映画館へ映画を届け、回収するという役割を果たすのが、「配給会社」である。

 「上映」は、私たちにもっとも近い部分である。映画館での上映を行う部分である。


 映画成立当時には、映画を専門で上映する映画館は存在しなかった。祭りの出し物と同じように、巡業で興行されたりしていたのだ。また、当時映画は興行師たちに販売されていたため、現在の配給会社の役割も存在しなかった。

 その後、映画はレンタル制を取るようになり、ニッケルオデオンのような映画館も誕生していく。映画がレンタル制を取るようになり、映画専門館が登場するようになったということはどのような意味を持つのだろうか?それは、映画が作品としての認識されるようになってきたことを意味している。

 映画が誕生した当初は、「写真が動く」といったこれまでになかった要素が、人々の注目を集めた。つまり、作品の内容はそれほど重要ではなかったのだ。人々が映画を見に行く理由は「新しいから」であった。「新しい」だけでは、人々の注目を集め続けるのは不可能である。そこで、映画は内容が工夫されていくことになり、映画は「映画」という全体の存在から、「映画作品」という個々の存在へと価値が変わっていくことになる。


 MPPCが誕生したのは、映画が「映画」から「映画作品」へと価値が移り変わっていく過渡期であった。フランスのパテ社が映画のレンタル制を始めたのが1907年、アメリカにニッケルオデオンが生れたのが1905年と言われている。

 MPPCは、映画の特許権を持つエジソン社への特許権料の支払いに同意した映画会社によって設立された団体である。しかし、MPPCはエジソン社への特許権の支払いに同意すれば、どんな映画会社でも加盟できるという団体ではなかった。フランスのゴーモン社や、スウェーデンのノーディスク社といった非加盟の映画会社はMPPCに加盟を申請したらしいが、パテ社の反対などによって実現していない。MPPCは単なる業界団体とは異なり、一部の映画会社によって映画業界を支配しようというカルテルであった。

 MPPCに加盟した映画会社が、映画の「製作会社」であるという点は注目に値するだろう。製作会社の団体であるMPPCは、特許権を盾に配給会社や映画館側にも一定の割合での権利料の支払いを要求した。映画製作は映画の機構全体の川上にあたる。権利料の支払いを行わない配給会社や映画館への映画作品の供給をストップすれば、MPPCの要求に従わざるを得ないという目算もあったことだろう。

 MPPCの要求を不服とした配給会社や映画館は多々あった。そういった映画会社は、MPPCに加盟していない映画製作会社の作品を扱おうとした。MPPCが、特許権料を支払えばどんな会社でも加盟できる団体ではなく、一部の映画会社によるカルテルであったため、MPPC加盟社以外の作品による対抗を許すことになる。もし、MPPCが映画製作会社であれば誰でも加盟できる団体であったとしたら、行く末は変わっていた可能性がある。

 さらには、ニッケルオデオンなどの映画館を経営していた人々の中では、ニッケルオデオンで上げた利益を元に、自ら映画製作を行う人々も現れる。後にユニヴァーサルを設立するカール・レムリや、フォックス社を設立するウィリアム・フォックスといった人々だ。

 また、ここで注意しなければならないのは、MPPCの成立の基礎として成り立っていたのが、撮影機や映写機といった映画を撮影したり上映したりする機械の特許であるということだ。映画が複製芸術であるということを考えると、これは非常に弱い基礎であった。

 映画が誕生した当初の、映画という存在のみで人々の興味を引くことができた時代であれば、機械の特許は大きな力となったことだろう。だが、そんな時代はとうに過ぎ去っていた。映画の存在価値は、映画という存在ではなく、作品の時代へと移りつつあった。

 レムリやフォックスのような自ら映画製作に乗り出した人々は、MPPC側が主張する特許権に抵触しない機械を使って映画製作を行った(といいながら、エジソン社製のカメラを使ったりもしていたらしいが)。MPPC側はレムリのような人々の映画製作を、暴力を使ってでも阻止しようとしたが、思うように成果を上げられなかった。ここに、カメラと光とアイデアがあれば映画は撮影できるという、大工場でなければ生産できない種類の物とは異なった側面を見ることが出来る。

 MPPCが目論んだカルテルは穴だらけの状態だったが、それでもMPPCが巨大な組織であり、MPPCの勢力が圧倒的な力を持っていたことには変わらない。しかし、最終的には、MPPCは破れ去ることになる。


 レムリやフォックスといった独立系の映画会社は、最終的にMPPCを破る。その原動力はどこにあったかというと、映画観客の選択であった。わかりやすくいうと、独立系の映画会社の作品はMPPC側の映画作品よりも人気があったのだ。

 その理由は様々である。MPPC側は少数の映画会社によって映画業界を牛耳るために設立されており、最終的な目標は企業として利益を上げることにあった。もちろん、独立系の映画会社も利益を上げることを目的としていたことは同じだが、その方法が異なった。MPPC側は、なるべく予算を削って映画を仕上げることを目的とした作品作りを行ったのに対して、独立系の映画会社側はなるべく観客を呼べる作品作りを行った。

 MPPC側の中心であるエジソンは、発明家であり実業家である。それに対して、独立系の人々は興行師である。その違いと言えばわかりやすいだろうか。MPPC側の映画会社が、会社運営に力を入れていたのに対して、独立系の人々は映画製作そのものに力を入れていたともいえる。

 映画館を運営する人々の収入源は、観客からの入場料である。MPPCに権利料まで払って人気のない作品を上映するのと、権利料を払わずに人気のある独立系の映画会社の作品を上映するかのどちらかを選べと言われれば、そこに選択の余地はない。MPPCはこうして、徐々にその力を失っていくこととなる。

 MPPCと独立系の映画会社の雌雄を決したのが観客であるという点には、私はある種の感動すら覚える。一時の娯楽を求めて映画館へと足を運ぶ名もない大勢の人々、そんな人々が支払う少しばかりの入場料が少しずつ積み重なり、最終的にはMPPCという巨象を倒したのだ。だが、そうして観客の支持を集めた独立系の映画会社は、後にMPPCが成し遂げられなかったカルテルを形成していくことになるのだが・・・。


 MPPCの存在は、「映画」から「映画作品」への時代の移動を促進したともいえる。結果的に、独立系の映画会社は観客に人気のある作品を製作するようになり、そのことは映画の作品としてのおもしろさを人々に伝えることにもつながっていく。だが、それは映画会社として利益を上げるためにMPPCによって追い詰められたからこそ、観客を呼べるような作品を作る必要があったとも言えるからだ。

 そんなMPPCは、映画から「映画作品」の時代への移行という過渡期にあって、映画の持つ性質を浮き彫りにしながら凋落していく。MPPCの設立から凋落は、「映画とは何か」に満ち満ちている。