イタリア、ディーヴァの君臨

 この頃、「ディーヴァ」と呼ばれた人気女優がイタリア映画を支配したと言われている。貴族や金融資本家たちは、ディーヴァの美しさにかけ、多額の投資をし、製作者・監督たちはディーヴァの奴隷となった。だが、ディーヴァの給料は決して高くはなかったという。

 「ディーヴァ」の誕生の要因としては、長尺作品の普及、人工照明の導入、クロース・アップの多用、映画的演技の完成、映画の産業への移行といった点が指摘されている。

 熱狂的なまでのスター主義はイタリア映画を衰退させていったといわれている。

 最初のディーヴァ女優と言われたリダ・ボレッリは、「愛の木枯」(1914)に出演している。

 ディーヴァのひとりであるフランチェスカベルティーニは「あるピエロの物語」(1914)に出演している。指定楽譜により画面と音楽がシンクロする工夫がされたといわれている。

 また、チェリオ社でベルティーニの作品を監督していたバルダッサレ・ネグローニは、ミラノ・フィルムに移籍している。1913年に脚本家として入社していたアウグスト・ジェニーナがチェリオ社の製作担当になったが、創設者のジョヴァッキーノ・メケリはカルロ・アマートに経営権を譲り、ティベール社を設立している。ティベール社は、ピネータ・サケッティにスタジオを建設した。

 ネグローニは、ミラノ・フィルムスに移籍後、エスペリア主演作を12本監督。1915−1921年にかけて30本ほど監督して最盛期を迎えることになる。1932年からプロデューサーとしても活躍した。

 1913年に、ディーヴァの1人と言われたリダ・ボレッリの作品を製作したグロリア・フィルムには、演劇活動を行っていたアムレート・パレルミが監督として入社している。パレルミは、メロドラマの分野で活躍し、1914年から1928年の間に21本のサイレント映画を監督したと言われている。



(映画本紹介)

「世界の映画作家32 イタリア映画史/イギリス映画史」(キネマ旬報社

 イタリアとイギリスの草創期から1970年代までの歴史の把握には最適の1冊。
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