アドルフ・ズーカーの長期ロードショー制度が映画にもたらしたもの

 後にパラマウントのボスとなるアドルフ・ズーカーは、アメリカでニッケルオデオンと言われた映画館の経営者として、映画界でのキャリアのスタートを切っている。1905年頃のことである。

 ニッケルオデオンは文字通り「ニッケル(5セント)」という安価で映画を提供する映画館であり、労働者階級の人々の圧倒的な支持を受けたと言われている。だが、一世を風靡したニッケルオデオンの経営に携わっていたズーカーは、1909年頃に経営危機に陥ったといわれている。だが、ズーカーはこの危機を乗り切ってみせる。

 ズーカーが危機を乗り切ったのは、ある1本の作品を自分の映画館で上映し、大ヒットを収めたからである。その作品は、フランスのパテ社製作の「我らが主なるイエス・キリストの生涯と受難」(1907)という作品である。

 ズーカーはこの体験をきっかけにし、それまでの日替わりから長くて週替わりでの上映という習慣を破り、長期ロードショー制度を確立したと言われている。言い換えれば、現在でも受け継がれている映画の上映方法はズーカーによって確立されたのだ。

 長期ロードショー制度の導入によって、映画は映像による一時の気晴らしから、「作品」としての存在を深めていくことになる。

 日替わり・週変わりで上映作品が替わっていた頃は、どんな映画が上映されているのかは映画館に行ってみないと分からなかったことだろう。現在のように上映情報をネットや雑誌などで簡単に得られる時代ではなかった。逆に言うと、ニッケルオデオンに通っていた労働者階級の観客たちは、映画に「作品」を求めていなかったともいえる。労働者階級の観客たちは、まるで仕事帰りにパブに立ち寄り、軽く一杯飲んで帰るのと同じ感覚でニッケルオデオンに通っていたのだ。

 長期ロードショー制度の導入によって、どの映画館にどんな映画作品が上映されるかの情報が価値を持つようになった。それは、「街で評判の作品」といった存在を可能にしたことだろう(日替わりでは、評判になる前に上映は終わってしまう)。当然、長期ロードショー制度の作品がターゲットとした観客も変わってくる。ズーカーがターゲットとしたのは、舞台を見るような中流階級の人々だった。ズーカーは中流階級の人々に舞台を見るように「映画作品」を見てもらおうとしたのだ。

 ズーカーは、「作品」を求める観客の存在を感じ取り、当時はまだ1巻物(15分)の労働者階級の人々のための気晴らし的な作品の量産に努めていたアメリカの映画制作会社の作品ではなく、ヨーロッパの文芸大作を輸入して、自分の映画館で上映した。その目論見はあたり、ズーカーは財を蓄えていく。そして、1912年には映画館経営にとどまらず、自らの映画館に上映する作品を製作するための映画製作会社である「フェイマス・プレイヤーズ」を設立する。


 長期ロードショー制度について、注意しておかなければならない点がある。それは、長期ロードショー制度はアドルフ・ズーカーが1人で考え出したもので、ズーカーの影響によって映画が「作品」となり、中流階級の人々も映画を見るようになったわけでは、決してないということである。

 1900年代のアメリカ映画産業の発展を見ると、そこには一筋の道筋が見える。最初は15分の気晴らしとしての映画があった。観客の対象は貧しく識字率も低かった労働者階級の人々だった。労働者階級が見に来る映画館は豪華さよりも安価な入場料が求められ、その要求に応えた映画館のニッケルオデオンは全米を席巻した。そんな映画は、中流階級にはバカにされていた。映画は単なる見世物に過ぎず、一時の娯楽に過ぎず、ニッケルオデオンのような不衛生で治安の悪いところには行ってはならないとされていた。

 1910年代に近づいてくると、社会の底辺の娯楽の存在だった映画に変化が訪れてくる。映画を撮影する技法も磨かれ、現在でも基本的に踏襲されている映像による話法も完成に近づいていくる。話法が磨かれると、映画でも舞台のように物語を語ることが可能だということに、映画の作り手も観客も気づくようになる。しかも、舞台のような固定的な視点ではなく、クロース・アップやカット・バックといった映画独自の技法は、舞台にはない映画ならではの魅力まで放ち始める。

 映画自体が技術的に磨かれていくのと同時に、アメリカ社会全体も豊かになり始める。ニッケルオデオンに押し寄せていた労働者階級の人々のほかにも、より経済的に余裕のある中流階級の人々の層が厚くなってきていた。

 ニッケルオデオンで財をなした人々の中には、ヨーロッパからの移民(特にユダヤ人)が多かったと言われる。そして、彼らはアメリカでの立身出世を夢見ていた。ニッケルオデオンで財をなすだけで満足した人も多くいたことだろうが、それだけでは満足しない人たちもいた。中流階級の人々からさげすまれる商売ではなく、もっと尊敬される商売をしたいと思う人たちもいた。アドルフ・ズーカーもそんな一人だったが、そういった人たちは、中流階級も映画に取り込もうと考えていた。そして、こちらの方が本当の理由だったかもしれないが、層が厚くなり、元々経済的に余裕がある中流階級は魅力的なマーケットだったことだろう。


 現在では、映画は当然のことながら「作品」として存在している。しかし、映画草創期はそうではなかった。「作品」となったのも、映画の話法が磨かれたことや、アメリカの社会的な変動が「作品」を求める人々を多く生み出したことや、ニッケルオデオンで財をなした人々が中流階級を取り込もうとしたことといった要素が融合し、「作品」となったのだった。

 そう考えると、映画が「作品」となったという流れは、非常に民主的な出来事であるように思える。もし、アメリカで中流階級の人々の層が多くならなければ、「映画」は貧しい人たちの一時の娯楽以上になることはなく、中流階級の人々は特権的に「舞台」を見続けるという分化のまま時代は流れ、現在の一時の娯楽の王者であるテレビの誕生とともに、映画は存在を消していたかもしれない。

 
 映画の作品化は、時代的な流れという面もあったとはいえ、アドルフ・ズーカーが社会の動きを鋭敏に捉えて、勇気を持って実行に移したという点は賞賛しなければならないだろう。どんな時代でも、どんな世界でも、「時代」のせいだけにする人間にロクなヤツやいない。ズーカーのように行動に移せるかどうかで、人間の価値は決まるのだろう。