D・W・グリフィスの作品 1914年(2)

「ホーム・スイート・ホーム」
 
 D・W・グリフィス監督・脚本
 マジェスティック・モーション・ピクチャー、レライアンス・フィルム製作。ミューチュアル・フィルム配給

 D・W・グリフィスによる1914年のこの作品は、「ホーム・スイート・ホーム」という民謡を中心とした4つのエピソードからなるオムニバス映画となっている。後にグリフィスが製作する「イントレランス」(1916)のように、エピソードが交互に語られていくという形式ではなく、1つ1つのエピソードを順番に語っていくという形となっている。

 1つ目のエピソードは、愛する母や恋人を思いながら「ホーム・スイート・ホーム」の歌詞を書き上げる作詞家の物語だ。ここで書き上げた「ホーム・スイート・ホーム」という曲が2つ目以降のエピソードでのモチーフとなる。

 2つ目のエピソードは、東部から西部へやってきた男性が、西部の女性と愛し合うようになる。男性は、一旦東部に戻らなくてはならなくなってしまい、再び西部に戻ってきたが、東部で出会った女性と結婚した方が将来を約束されており、東部の女性との結婚を選ぶ。置き手紙をして、去っていく男性。しかし、途中で「ホーム・スイート・ホーム」の調べを聞き、西部の女性への愛を思い出し、西部の女性の元へと戻っていく。

 わかりやすいメロドラマだ。揺れる恋心と、愛の勝利が10分という短い時間で凝縮して高らかに謳い上げられている。「ホーム・スイート・ホーム」の調べを聞いて、急いで馬に乗って駆ける様子は感動的ですらあった。

 3つ目のエピソードは、仲の悪い兄弟とそれを案じる母親と末の弟の物語。仲の悪い2人はついにお互いに殺し合い、残された母親は悲嘆にくれて自殺しようとするが、「ホーム・スイート・ホーム」の調べを聞き、思いとどまる。

 いきなり最初から兄弟が憎みあっていて、状況が飲み込めないというのが難点といえば難点。また、最初は憎み合う二人が兄弟だということも、少年が末の弟だということもわからなかった。

 4つ目のエピソードは、結婚式で偶然に「ホーム・スイート・ホーム」の調べを聞いた夫婦が主人公。数年後、妻は夫の外出中に男性からの誘惑を受ける。そこに夫が外出から戻ってくるが、夫は家の外のソファに座ってタバコを吸っているうちに眠ってしまう。妻が誘惑に心が揺れ動いているところに、偶然に「ホーム・スイート・ホーム」の調べが聞こえてきて、夫への愛を思い出す。

 結婚式と誘惑されているときに聞こえる「ホーム・スイート・ホーム」の調べが偶然にも、同じバイオリンから奏でられているものという出来すぎの偶然がドラマを盛り上げる。

 最後には地獄のような場所にうごめく人々と、天上を舞う天使の姿が映し出されるという哲学的なシーンで終わる。

 すべて、「ホーム・スイート・ホーム」が聞こえてくるシチュエーションは出来すぎなのだが、それがこの映画の最も魅力的なところだ。この作品はヒッチコックの「裏窓」(1914)を思い起こさせる。人生に悲嘆し、自殺しようとする「ミス・ロンリー」が、同じアパートに住む作曲家の奏でるピアノの調べを聞き、自殺を思いとどまるエピソードだ。「裏窓」の音楽自体は今ひとつだったが、この作品の音楽はシンプルなピアノが心に残るものとなっている。

 この作品はサイレント映画だ。したがって、もともとついている音楽はない。私が見たビデオでは、ピアノの演奏がついており、「ホーム・スイート・ホーム」は絶妙のタイミングで流れる。もし、ピアノの演奏がなければ、この作品の魅力は無に等しくなってしまうことだろう。この作品は、トーキーの魅力を先取りしているといってもいいかもしれない。サイレントでありながら、音楽が映画の成り立たせる重要な役割を果たしている。興行に際しては、音楽に注意が払われたことだろう。

 ひたすら愛の賛歌であるこの作品の魅力は、後のグリフィスの作品群に決してひけをとらない。「国民の創生」(1915)のように、その思想性の問題を考えなければならないようなことも、この作品にはない。グリフィスのテクニックはひたすらメロドラマ、すばらしいメロドラマの製作のために向けられている。