「カビリア」

 イタリア映画 イタラ・フィルム製作
 製作・脚本・監督ジョヴァンニ・パストローネ 

 ここで語りたいのは、この映画における「引きの映像」の使い方についてである。この映画において私が感心したのはクロースアップよりもむしろ引きである。映画の特権であり、これによって映画が芸術となったとまで言われるクロースアップであるが、この映画での使い方はそれほどうまいものとはいえない。この映画でもっとも印象に残ったクロースアップを具体的に言うと、カビリアの乳母が手に入れる王家の指輪のアップである。しかも、この指輪はそれほど重要なものではない。重要なものでなければアップにしてはならないというわけではもちろんないが、この映画のクロースアップが効果的には使われていないという印象を受けた。

 それと比べると、この映画の引きの映像は生きている。たとえば、追われた男が崖の上から海に飛び込むシーン。遠くの岸壁を見るような引きの視点は追われる男の姿と、追っ手たちの姿をいきいきと描写する。またたとえば、「猿」と呼ばれる宿屋の主人が密告をするシーン。少し引いた視線から光と影だけで耳打ちをする様子を描くことによって、邪悪さ・不吉さを強調する。さらにたとえば、ハンニバルのヒマラヤ越えのシーン。少し引いたカメラは、雪山の中を行軍する兵士たちを捉える。このシーンは映画の実際の雪山を撮影することができるという利点とともに、引きの映像の醍醐味を感じさせる。

 クロースアップ、クロースアップと初期映画語る上では口癖のようになっているが、こうした引きの映像の使い方のうまさは指摘しなければならないことであろう。引きの映像はごまかしがききにくいのである。書割では書割だとあっさりとばれてしまう。映画の利点の一つである「実際の場所を見せることが出来る」を生かすのはクロースアップよりも引きの映像なのではないだろうか。確かにクロースアップは純粋に映画的な手法である。しかし、それにこだわることによってもう一つの映画の醍醐味を失わせてはいけない。

 引きの映像を生きたものしているテクニックの一つに移動撮影が挙げられる。現在のようにステディカムを使って縦横無尽に移動しまくるといったものではないが、この作品ではピントを合わせたままゆっくりととした移動撮影が行われている。時に、ただ移動しているだけで効果があまりないように感じられるようなものもあるが、移動することで映画の中で捉えられている場所や人々が生き生きと浮かび上がってくるシーンもあったし、徐々に動いて最終的に重要なものにたどり着くことで劇的効果を高められているシーンもあった。

 それにしても、この映画の物語は(少なくとも私には)おもしろいものだった。基本的にはつかまる/逃げるの物語でしかないのであるが、その単純さゆえにおもしろさが際立つのかもしれない。映画でも小説でもドラマでも紙芝居でもアニメでも漫画でも、ストーリーが面白いものは基本的にストーリーだけを追っていればおもしろさを感じることが出来る。この映画には、ストーリー以外の部分がないといってもいい。セリフも(それはサイレントだからだが)、演技も、セットもすべてがストーリーを語るための一助でしかない。こういう映画は単純だ。ストーリーがおもしろければ映画もおもしろくなる。この映画のメロドラマ的な展開は、心に染み入るようなものではないかもしれないが、単純におもしろいものではある。

 ただ、正直ストーリーが煩雑にも思えた。私が見たビデオは88分の説明つきのものであったが、説明なしで理解できたかと問われると、自信がない。しかし、この作品はもともとが4時間近くで完成されていたというから、もともとの作品は説明がなくとも十分に理解しうるものだったのかもしれない。

 この作品は、映画が舞台から離れてストーリーを紡いでいる初期の作品である。果敢なロケと豪華なセットを駆使し、映画ならでは世界を構築している。映画の中盤では夢でうなされるシーンで、終わりでは大団円を意味するために、ジョルジュ・メリエスの作品で見られるような二重露出によるトリックが使われている。メリエス的な映画のトリックを用いた短編の時代から、物語を語る長編への時代の過渡期の作品としての刻印がトリックに見ることができる。

(ビデオ紹介)

カビリア [VHS]

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