イタリア映画 威光が頂点に

 イタリアは当時、アメリカに次ぐ世界的な映画製作国としての威光を保持していた。

 1915年、フランスのパテ社は世界市場における自社の地位を固めるために、製作が危機に陥っていたフランスを当てにせず、イタリアの映画製作会社と独占契約を結んだと言われている。1915年は、イタリアの映画輸出が最高潮を迎えた年だが、第一次大戦への参戦から凋落の兆しが見られるようになっていた。

 5月のイタリア参戦から、資本の流入が減り、輸出状況が悪化、召集によりスタッフが不足し始めた。にも関わらず、ディーヴァと呼ばれたスターの名声は高まり、傲慢になっていったことが衰退の原因とも言われている。また、アメリカが大スペクタクル映画を製作できるようになっていた点も大きいという。

 1915年は、トリノが映画産業の首位をローマに奪われた年でもある。ローマには25社の製作会社、66の配給会社、55の映画館があったという。ちなみに、イタリア全土では製作会社が80、配給会社が460、映画館が1,500あり、1915年の輸出は4,000万金リラだったという。



(映画本紹介)

「世界の映画作家32 イタリア映画史/イギリス映画史」(キネマ旬報社

 イタリアとイギリスの草創期から1970年代までの歴史の把握には最適の1冊。
 古本屋などで探してみて下さい。