映画評「A FOOL THERE WAS(愚者ありき)」

 ウィリアム・フォックス・ヴォードヴィル製作 ボックス・オフィス・アトラクションズ配給
 製作ウィリアム・フォックス 出演セダ・バラ エドワード・ホセ

 「愚者ありき」は、セダ・バラが映画史上初めて強烈なヴァンプ役を演じて有名な作品だ。映画の内容以上に、セダ・バラのPRについての様々な点の方が有名だろう。

 ここではセダ・バラのPRについての詳細は避ける。だが、1点だけ注目しておきたい点がある。それは、セダ・バラのPRが映画の公開前に行われたという点だ。決して映画が公開されてから、セダ・バラのヴァンプぶりが話題になったというわけではない。この作品は、映画の公開前から映画史に残る存在となることが義務づけられていたのだ。それゆえに、「愚者ありき」について語るということが、セダ・バラのPRを語ることと同義となるのはいたし方のないことなのだと思う。

 だからといって、「愚者ありき」の「作品」がどうなのかがあまり語られないというのは寂しい話だ。なぜなら、この作品はおもしろいからだ。


 アメリカ人外交官であるスカイラーは、小さな子供と美しい妻に加えて気のいい友人たちに囲まれた幸せな生活を送っていた。スカイラーに眼をつけた女性(セダ・バラ、役名はない)はスカイラーを誘惑し、彼を家族から引き離す。スカイラーを取り戻そうとする妻や友人たちの試みもうまくいかない。

 ストーリーは単純だ。馬鹿らしいといってもいいくらいだ。しかし、馬鹿らしいストーリーの作品が、決して馬鹿らしい映画とはならないことを私たちは知っている。たとえば、女性がティーンの少女になった点以外に基本的なストーリーは「愚者ありき」と違いがない、スタンリー・キューブリックの「ロリータ」(1962)を思い出してみて欲しい。

 「愚者ありき」の最大の魅力は、スカイラーの凋落ぶりである。意外に感じられるかもしれないが、最大の魅力はセダ・バラではない。セダ・バラがいかにスカイラーを誘惑するかという点は「愚者ありき」の魅力ではない。なぜか?それは、セダ・バラがスカイラーを誘惑するシーンがまったく描かれないからだ。スカイラーとセダ・バラが船上で出会うシーンを描いた後、映画は一気にスカイラーがセダ・バラの魅力の虜になっているシーンへと飛躍する。この飛躍が、「愚者ありき」を「作品」として素晴らしいものにしている。もしここで、セダ・バラの誘惑するシーンがクドクドと描かれていたら、少なくともセダ・バラの誘惑が気に入らない観客にとっては、それ以降のシーンは退屈で退屈で仕方がないものになることだろう。

 セダ・バラがスカイラーを誘惑するシーンを描かないことで、セダ・バラはヴァンプのイコンとして存在することが可能となった。セダ・バラがどんな手口を使ったかはわからないが、確かに数々の男たちを虜にすることができる「何か」があるのだ。それで十分なのだ。それは、アルフレッド・ヒッチコックの「レベッカ」(1940)の中で、「レベッカ」が一度も映画内に登場しないからこそ、「レベッカ」の存在感が増していたのに似ている。描かないことが、何よりも強い印象を残すこともあるのだ。

 スカイラーの凋落は滑稽ですらある(それは「ロリータ」がそうであったように)。しかし、滑稽さを超えたおそろしさも同時に感じる(それは「ロリータ」がそうであったように)。セダ・バラの魅力の前には、妻の説得も、幼い子供の抱擁も負けてしまう。もしかしたら、そこには麻薬のような物理的な何かを、セダ・バラがスカイラーに与えているのではないかと思われるほど極端だ。

 この極端さは、映画を破綻させるギリギリのラインにある。見る人によっては(見る日によっては私も)、セダ・バラの魔力はまったく信頼できないものとなるだろう。

 おそらく、「愚者ありき」が同じ内容でトーキーであったならば、ギリギリのラインではなく、セダ・バラの魔力をまったく信頼できない作品となったことだろう。それは、トーキーは言葉を使うことができるという点で、より現実の世界と近い形態のものだからだ。「愚者ありき」にあるセダ・バラの神秘性を、誘惑するシーンを描かないことで維持しようとしても、言葉を発したセダ・バラからは神秘性がヒューヒューと音を立てて漏れていくことだろう。

 その意味で、「愚者ありき」はサイレントならではの作品といえるかもしれない。サイレント映画は映像のみで表現する必要があるため、物事は抽象的に描かれるからだ。サイレント映画を見ている私たちも抽象的に描かれた映画の内容を受け入れることができるからだ。

 スカイラーを演じたエドワード・ホセの功績について触れなければならないだろう。セダ・バラにすべてを吸い取られていき、それでもなおセダ・バラから離れられない「愚者」を見事に演じている。セダ・バラと会ってから常に足元がおぼつかない感じ。やつれた表情と、すでに死んでしまっているかのような眼は、記憶に値する。

 見事なセット、特に堕ちぶれていくスカイラーの家のうすら寒い雰囲気の漂う荒廃した部屋も素晴らしい。そこには、かつての家族たちに囲まれた頃のような幸せな雰囲気はかけらもない。また、見事なライティング、特にまるでヴァンパイアに血を吸われたスカイラーが自らもヴァンパイアになってしまったかのように、日光を避けるようにカーテンをした部屋のライティングが素晴らしい。

 この映画のラストはどうなるだろう?それは、見てのお楽しみだが、今のハリウッド映画ではなかなかこうはいかない。今ではあまり見ることができない展開を見るのもまた、昔の作品を見るときの楽しみの一つである。