ミューチュアル時代のチャップリン

 チャールズ・チャップリンはミューチュアル社の移籍によって、一棟のスタジオが自由になり、チャップリン作品製作のために設立された会社ローン・スターの名前がスタジオにつけられた。かなり立派なセットを組むことができるようになり、セットや小道具を生かした作品を製作していくことになる。

 当時のチャップリンの人気の大きさを示すエピソードがある。チャップリンは、ミューチュアルと契約後、ロサンゼルスからニューヨークまで列車で出かけることになった。このことは新聞などのメディアで取り上げられ、行く先々の駅では溢れ返る群衆の歓呼の声にチャップリンは迎えられることになった。目的地のニューヨークでは混乱が予想されたため、予定より1駅前で下車しなければならないほどだったという。

 チャップリンは、ミューチュアル社でさらに飛躍をしていくことになる。ジョルジュ・サドゥールはこの頃のチャップリンについて次のように言っている。

 「エッサネイ社の14作品は、まだ完成の域に達していなかった。チャップリンはそこにとどまっていて、ランデーを凌駕していなかった。チャーリーという蝶はチャスという蛹から姿を現したばかりである。しかし、その羽はまだ飛翔力を持っていなかった。チャップリンは、ミューチュアル社のために、1916年8月から17年の暮にかけての18ヶ月間に演出した12本の映画によって初めてチャーリーとなるのである」

 この年にミューチュアルから公開された作品には、「チャップリンの放浪者」「午前一時」「チャップリンの伯爵」「チャップリンの番頭」「チャップリンの道具方」「チャップリンのスケート」がある。

 また、製作日数が延びたためと、チャップリンが長編として製作しようとしたために、ミューチュアルによってお蔵入りにされた作品に、「その日暮らし」がある。ミューチュアル社は、この作品のフィルムにチャップリン抜きで撮影したフィルムを追加して、1918年に「三つ巴事件」として公開している。

チャップリン自伝〈下〉栄光の日々 (新潮文庫)

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