イギリス映画 第一次大戦と映画製作

 イギリスでは、1914年から15年にかけて、戦争映画、戦意高揚映画が作られていたが、戦争の長期化により、人材難、物資難が顕著となり、閉鎖する撮影所が続出した。

 映画製作者のウィル・C・バーカーも会社をたたみ、ラルフ・テニスン・ジュップが1913年に設立したロンドン・フィルムも経営危機に陥った。

 セシル・ヘップワースは、ヴァイタグラフ・ガールのフローレンス・ターナーと監督ラリー・トリンブルをアメリカから招き、ターナー・フィルムを設立した。「遥か群衆を離れて」(1916)を製作するが、1916年末には2人とも帰米してしまっている。

 一方で、1915年にブリティッシュ=ゴーモン社の主任監督となったジョージ・ピアソンは、「モルガン(再生せるウルタス)」(1916)を第一作とする、「ウルタス」シリーズ(全4作)を手がけて名を売っている。フランスの「ファントマ」(1913)を向こうにはった復讐鬼のミステリーで、人気を呼んだ。

 映画製作の面では、1916年以降、経済の悪化から文芸映画シリーズは中断され、製作費のかからない作品が多くなったという。社会的な問題(貧困など)をテーマにした作品もあったが、多くはありきたりなメロドラマだったと言われている。

 軍部によるドキュメンタリーやプロパガンダ映画は多く作られた。当初、軍部は映画に熱心ではなかったが、ドイツが映画をプロパガンダに使用しているのを知り、戦争時局委員会がカメラマンを前線に派遣するようになったという。1916年に製作されたジェフリー・マリンズが撮影した5巻もの「ソンムの戦闘」から、宣伝色の強い記録映画が多く作られた。

無声映画芸術の開花―アメリカ映画の世界制覇〈2〉1914‐1920 (世界映画全史)

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