ロシア革命と映画への影響

 1917年はロシア革命が起こった年でもある。1917年3月、皇帝ニコライ二世が退位に至るロシア革命(暦の問題で3月に起こったが「二月革命」と言われる)は映画にも影響を与えた。3月には、2,000人が集まった映画人の集会がモスクワで開かれて「映画のための組合」が結成され、1917年5月1日のメーデーではレーニンが初めて映画に撮影されている。

 二月革命後、ケレンスキーによって臨時政府が樹立される。一方で、労働者や兵士を代表する団体であるソヴィエトも発足されている。臨時政府とソヴィエトの2つの権力が連携して、政権運営がなされた。

 そんな中、映画界は今までの製作を踏襲した。それまでの内容と変わらない作品は、会社、監督、スタッフ、キャスト、脚本家も変わらず同じだった。だが、次第に政治的な映画が出現してくる。

 「二月革命」に関するニュース映画「2月28日のロシア革命」が公開され、ニュース映画「自由ロシア」が週報で公開されるようになる。また、古いニュース映画やロマノフ家の私的なフィルム(「ツァーリ・ニコライ二世」(1917)「昔ありて今やなきもの」(1917)が公開されている。

 一方で、労働者や兵士を代表する団体であり、革命をさらに進めることを目的としていたソヴィエトは、革命と示威運動を撮影する映画班を設立し、短編ニュース映画やドキュメンタリーを上映した。

 当時はまだ第一次大戦が継続中の頃であった。第一次大戦に対する対応において、ケレンスキーの臨時政府と、ソヴィエトの対応が分かれる。臨時政府は戦争継続を表明し、ソヴィエト内の組織であるボリシェヴィキを率いていたレーニンが戦争継続を激しく批判した。

 ケレンスキーの臨時政府はニュース映画で戦争継続を訴え、反ボリシェヴィキ映画・反レーニン映画を製作したが、ほとんど上映されなかったという。

 その後、11月に「十月革命」起こり、レーニンが権力奪取する。レーニンによる新政府は、1917年11月9日、教育人民委員部に映画セクション(キノポドトテル)を設立している。レーニン夫人のナジェージダ・クルプスカヤが監督する組織で、ソビエト最初の映画組織でもある。以後、モスクワ映画委員会をはじめ、各地に映画機関が誕生することになる。



(映画本紹介)

無声映画芸術の開花―アメリカ映画の世界制覇〈1〉1914‐1920 (世界映画全史)

無声映画芸術の開花―アメリカ映画の世界制覇〈1〉1914‐1920 (世界映画全史)

無声映画芸術の開花―アメリカ映画の世界制覇〈2〉1914‐1920 (世界映画全史)

無声映画芸術の開花―アメリカ映画の世界制覇〈2〉1914‐1920 (世界映画全史)