日本 警視庁による活動写真の取り締まり

 1917年(大正6年)は、警視庁が映画の取締規則である「活動写真興行取締規則」を発令した年でもある。

 それまで映画の取り締まりは、芝居や見世物を取り締まっていた法システムによって行われており、各地方の警察署の規制を受けていた。今回の警視庁の措置は、映画のための特別な検閲システムが創設された日本最初の例といえる。

 この規則によって、映画館の規制と並んで、フィルムの内容の検閲が定められるようになった。所轄警察署ごとに行われていた検閲を警視庁が一括して実施するようになり、筋書きを含む許可申請書を審査した。だが、検閲の判断基準は「公安風俗の取締上必要のあるとき」とされ、明確に定められなかった。警視庁内には、検閲のために「活動写真検閲室」を設けられた。また、許可の有効期間は1年だった。

 さらに、検閲で許可されたフィルムの上映に際しては、所轄警察署の認可を得る必要があった。所轄警察署は、上映される映画が許可を得た筋書きと同じかを監視した。監視のために、臨検のための席を用意することも求められた。

 作品を甲乙に分け、甲は15歳未満の観覧禁止とする項目もあった。現在のレイティング・システムに似ているが、甲のフィルムであっても、有害な場面はカットされた。輸入映画については甲乙の区別がないことや、子供向けのフィルムのストックがなかったことから、興行者は興行的な打撃を怖れた。そこで、1年の実施延期と、保護者が同伴できれば、甲のフィルムを児童が見られるよう緩和策を陳情したが受け入れられなかった。浅草興行組合は、全興行場のイルミネーションを消して抵抗を示した。このシステムが実施されると、映画の客足が減退し、休業する映画館もあったという。だが、一般の新聞は、当時の流行だった「児童問題」の解決の一つとして、取締り方針に同調したと言われている。

 「児童問題」は、当時大きく取り上げられており、民間の帝国教育会の通俗教育部は映画の教育的利用に取り組んでいた。1917年には、検閲の一定化や、弁士の人物調査・説明の検閲などを求める活動写真取締建議を文部・内務両省に提出していた。

 男女の客席を区別することも求められたが、夫婦や子供連れのために同伴席も作られたという。これの規則は、暗室を前提とした活動写真特有の規則といえる。

 弁士は有効期間3年の免許制となった。基準は、「説明に際し公安風俗を害するとき」「素行不良のとき」など明確ではなかった。

 他にも、興行時間・休息時間の規定、看板の大きさと個数の制限、呼び込みの禁止といったものが定められた。

 こういった規則は、それまでの他の分野の取締システムと無関係ではなかった。たとえば、明治初期から俳優・遊芸人などは免許を受ける必要があった。これは、自由競争を排除し、営業を保護するという面もあったという。

 東京での検閲が統一されたことは、それぞれの上映場所ごとの、重複の検閲が必要なくなった点で業者にとっては営業的に良くなった面もあったという。



(映画本紹介)

日本映画発達史 (1) 活動写真時代 (中公文庫)

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日本の映画の歴史を追った大著。日本映画史の一通りの流れを知るにはうってつけ。