フランスの映画製作の衰退とパテ社の映画製作の中止
第一次大戦の勃発、ライバル(ハリウッド)の躍進などにより、フランスの映画製作は危機を迎えていた。かつて、世界の映画製作市場の覇者だったシャルル・パテ率いるパテ社も同様だった。パテは外国(特にアメリカ市場)に活路を見出していた。国外でも商品価値の持つ脚本を持つことを強調し、フランスのプロデューサーが外国の文学作品を読むように勧めた。
パテは次のように語っている。
「私の目的は、私が必要不可欠だと言おうとしていた、申し分ない顧客であるアメリカ人たちから好かれることです」(「世界映画全史」)
「<アメリカ的な趣味>に迎合するか、それとも滅亡するか」(「世界映画全史」)。
それでも、パテ社は第一次大戦中も世界一位の映画会社で、アメリカの大部分の競争相手を凌いで、数百万フランの利益を上げていた。
だが、パテ社は作品に金をかけず(1年のフランス映画の製作費は、アメリカの長編映画1本と同じ金額だった)、スタッフ・キャストは安い給料に抑えられ(彼らはアメリカやイタリアへと渡った)、セットは時代遅れとなっていた。
当時のフランスの映画製作の状況をジョルジュ・サドゥールは次のように書いている。
「財政的な手段は、フランスの大手製作会社にはまったく不足していなかった。しかし、そうした会社の重役会はその利益を製作に投資しようとはせず、他のもっと儲けの多い部門、つまり第一に外国映画の輸入と配給の方を好んでいた。こうして大手製作会社は、彼ら自身の国内市場で、国産映画に対する観客の嗜好をじわじわと薄めていく元凶となったのだ」(「世界映画全史」)
1918年、パテ社は法律によって、上映の25%をフランス映画に充てる義務を負わせようとしたが、失敗に終わっている。1914年以前はフランス映画が国内興行の80%を占めていたが、1916年以降はほとんどアメリカ映画が占めていた。1917年にフランス映画の割合は30%、1918年には10%にまで落ち込んだ。パテは「フランスは他国と比べて、映画興行市場が小さかったため覇権を握れなかった」と主張している。
また、パテは1918年の夏にフランスの映画製作者カルテルの結成を提案したが、失敗に終わっている。
1918年9月、シャルル・パテはスタッフ・キャストの養成が困難との理由で、映画製作を断念すると発表する。そして、1818年11月30日にパテ=シネマ社を設立し、映画製作を破棄して配給へと向かうことになる。また、パテ社と同じくフランス映画界の古参であるゴーモン社も同じ方向に向かう。
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