ジガ・ヴェルトフ、レフ・クレショフ ソ連映画人の胎動

 ジガ・ヴェルトフはキノネデリア(映画週刊誌)という名前のニュース映画を政府の依頼で製作している。1918年6月1日に第一号が封切られたが、1919年にはフィルム不足から不規則になり14号で終わりを迎える。ヴェルトフは、1917年11月から18年11月に撮影されたドキュメントを編集した「革命一周年記念」という映画も製作し、1918年の暮れに公開されている。12巻(上映時間約3時間)という大作だった。

 レフ・クレショフは、1916年に17歳でハンジョンコフ撮影所に採用され、エフゲーニ・パウエルの美術担当として活躍していた。その後、パウエルが事故死したため、「幸福を求めて」を完成させている。その後、ボリス・チャイコフスキーの美術を担当するが、チャイコフスキーと合わずにハンジョンコフ社を去った後、コズロフスキー・プロで監督となっていた。クレショフは初監督作「プライト技師の計画」(1918)を19歳で完成させている。1918年には他にも、教育人民委員部の映画委員会でニュース映画の監督を行った。監督したニュース映画には戦争ニュースもあったという。