早川雪洲がスターになった理由

 日本人にとって、ハリウッドの壁は厚くて高い。メイクアップや、マット・ペインティングなどの裏方を別とすると、映画監督や俳優の分野で、一線で活躍することができた日本人はほとんどいない。マコ岩松ジェームズ繁田のように、アメリカに帰化して脇役として長く活躍した役者もいるが、ショー・コスギ千葉真一などは一時のブーム時以外は活躍できなかったし、あくまでもB級映画での活躍だった。

 ここに1人の例外がいる。早川雪洲だ。ハリウッドの「トップ・スター」として活躍した唯一の日本人である。1910年代からトマス・H・インスの元で映画に出演した早川は、セシル・B・デミル監督の「チート」(1915)で人気を決定的にした。その後も早川は、ハリウッドの一角に古城のような豪邸を購入したり、自身のプロダクションを設立したりして活躍をした。

 「豪邸の購入」と「自身のプロダクション」は、当時のハリウッド・スター、しかもトップ・スターの証明であったといえる。この2つを手に入れたスターの名前を挙げると錚々たる人物の名前が連なる。ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、ルドルフ・ヴァレンチノ・・・彼らと同じだけの名声と収入と地位を早川は手に入れていたのだ。

 早川は、名だたるトップ・スターと同じような生活、同じような地位を得たにも関わらず、違った点もある。それは、早川は悪役でスターになったという点だ。「チート」で早川が演じるのは、白人女性の肩に焼きごてを押し付ける卑劣な人物である。日本では国辱映画と言われるほどの苛烈な描写もありながら、早川はスターとなった。この後の早川が演じた役柄は、日本人であることを強調した役柄が多いという。早川の映画はあまり残されていないが、「THE SECRET GAME」(1917)という作品では、父親からもらった日本刀を大事にしているという、いかにも外国人が喜びそうな日本人を演じている。早川がハリウッドでスターの地位にのし上がることができた理由の1つはここにある。

 早川がハリウッドでトップ・スターとして活躍した時期の映画はサイレントだった。早川がスターとなれた理由の1つに、当時の映画がサイレントであった点はもちろん大きい。サイレントなので、英語力は問われない。ゆえに、演技力うんぬんよりも、早川の見た目のハンサムさに観客の目は向けられたのだ。トーキー以後のハリウッドで、日本人は言語の壁に阻まれることになるが、サイレント映画では無縁の悩みだった。

 サイレント映画はトーキー映画よりも、音よりも映像の占める重要度が高かった。そのために、早川はスターとなることができた。そのため、早川の役柄は日本人でなくてもよかった。たとえば、「チート」は日本への配慮によって、後に再公開されたときには、設定がシャム人となっていた。早川だけではなく、「バグダッドの盗賊」(1924)などに出演した上山草人が演じた役柄に、日本人はなかったという。

 このことが、早川や上山の映画人生にとってよかったのかどうかは分からない。ただ、サイレント映画においては、早川や上山の容貌が、シンボルとして機能することができたということはいえるだろう。それゆえに彼らは当時のハリウッドで活躍することができたのだ。

 早川雪洲は、今なおハリウッドで最も成功した日本人として名を残している。そして、そのことは、サイレント映画の特徴を浮かび上がらせてくれる。

ハリウッドの日本人―「映画」に現れた日米文化摩擦

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