「スコウマン」とアメリカ映画の誕生

 「アメリカ映画」はいつ誕生したのだろうか?もちろん、アメリカで製作された作品=アメリカ映画と考えるならば、エジソン社が製作した作品からということになるだろう。だが、私がここで「アメリカ映画」とカッコをつけて書いたのは、分かりやすい話法で、多くの人が楽しめるという意味のアメリカ映画である。それは、ハリウッド映画と言い換えてもいい。

 私たちが映画草創期の作品を見ようと思ったとき、多くの人が最初にぶつかるのはD・W・グリフィスとチャールズ・チャップリンではないだろうか。2人はアメリカで映画を製作した人物であり、もちろん2人が世に送り出した映画はアメリカ映画であろう。しかし、グリフィス作品もチャップリン作品も、アメリカ映画である前に、グリフィスの映画であり、チャップリンの映画である。


 「国民の創生」(1915)は、映画界のエポック・メイキングな作品であることは間違いない。南北戦争というアメリカならではの題材を、大きなスケールで描いた「国民の創生」は、まさにアメリカ映画であるだろう。それでも、「国民の創生」は、D・W・グリフィスの作品であるという印象が強い。それは、映画の中の黒人描写にグリフィス自身の考え方が色濃く反映されていることもあるし、リリアン・ギッシュ他の出演者たちがグリフィスによって育てられた役者たちだからというのもある。

 チャップリンについては、あれこれ細かく書く必要もないだろう。チャップリン映画はチャップリンが出演していなければチャップリン映画とはなり得ない。ゆえに、チャップリン映画はアメリカ映画である以前にチャップリン映画なのだ。


 1913年、1つの映画製作会社が誕生している。名前は「ラスキー・フィーチャー・プレイ」である。この会社は翌1914年に「スコウマン」という作品を第1作として発表し、その後多くの作品を世に送り出していく。

 「ラスキー・フィーチャー・プレイ」には後のアメリカ映画に大きな影響を与える3人の人物が関わっている。ジェシー・L・ラスキー、サミュエル・ゴールドウィン(当時はゴールドフィッシュ)、セシル・B・デミルの3人だ。

 ラスキーが製作、デミルが演出を担当。ゴールドウィンは営業を担当したといわれている。その3人のコラボレーションによって作り出された「スコウマン」は、西部を舞台にした、ネイティブ・アメリカンの女性と結婚した白人の物語である。正直言ってストーリーはあまり楽しめなかったし、演出も平凡だと感じた。


 それでも、「スコウマン」にはこの後のアメリカ映画が辿る道筋を示している。

 「スコウマン」はアメリカ映画初の本格的な長編作品と言われている。といっても1時間30分に満たないのだが、当時は1時間を超えると長篇と言われた。私たちは当たり前のように、映画は2時間程度のものだと思い込んでいるが、当時はそうではなかったのだ。

 西部を舞台にした作品であるという点も忘れてはならない。西部劇は「スコウマン」以前にも作られて入るが、長篇ドラマとして本格的に作られたのは「スコウマン」が初めてだろう。そして、西部劇はアメリカ映画の特色の1つとなっていく。

 さらに、舞台の映画化である点も覚えておく必要がある。映画は小説・舞台などから題材を求める。そしてそれは、元々が有名なものを映画化することによってヒットを保証するものでもる。


 「アメリカ映画」はいつ誕生したのだろうか?その答えを出すのは難しいが、「ラスキー・フィーチャー・プレイ」の設立と第1作「スコウマン」がアメリカ映画の誕生だと、そう言い切っても決して大げさではないだろう。