映画評「ぶどう月」 ルイ・フイヤード監督作

 原題「VENDÉMIAIRE」 製作国フランス ゴーモン製作
 監督・脚本ルイ・フイヤード

 フランス映画の最初期から監督を務めたルイ・フイヤードによる愛国的な作品。

 製作は第一次大戦中であり、敵国であったドイツ人を悪役として、フランス人の愛国心、強さ、したたかさをぶどう畑というフランスならでは舞台で描いている。

 第一次大戦中の南フランスのぶどう畑。戦火の影響は直接受けていないものの、戦地となった場所から逃げてきた人々、夫を戦争で奪われた人々などが集い、季節労働者として働いている。そこに、金を奪ってスペインに逃げ込もうとするドイツ人の脱走兵2人がベルギー人に化けてやってくる。ドイツ人はあの手この手を使って、金を手に入れようとするが失敗する。

 2時間半に渡る超大作。愛国的な映画だが、戦場を描いているシーンは少なく、それよりも戦争によって傷ついていない風景や、ぶどうやワインというフランスならではのモチーフを活用することで、フランスという国自体の素晴らしさを歌い上げようとしている。

 様々な境遇、様々な過去を持ちながら、ぶどう畑で季節労働者として精一杯働くフランス人たちの平穏を、ベルギー人に化けたドイツ人が自分の欲のためにかき乱すという展開は、第一次大戦の構図をぶどう園に縮小して描き出すことに成功している。

 特筆すべきはドイツ人の描き方だろう。2人組の片方は、徹底的に悪く描かれているものの、もう片方はまるで操られているように描かれている(ドイツ訛りがばれないように、言葉をしゃべることを禁じられている設定もまた、上の命令に付き従っているだけのドイツ兵の隠喩にも見える)。最後にしゃべることを禁じられていたドイツ兵が、「我が祖国ドイツ」と歌うシーンには、一種の哀愁すら感じられる。祖国から逃げたが、従うべき存在を失い、途方に暮れる人物となったドイツ兵を、主人公とも言うべき男性は「彼はただの敗残兵だ」と捉えている。

 このシーンはフランスの誇り高さや寛容さを同時に示そうとしているようにみえるが、同時に余裕も感じられる。「ぶどう月」が製作された1918年には、雌雄はフランスを含む連合国側へと傾いていた(映画内でも連合軍の優勢が伝えられている)。だからこそ、ドイツ人に対して寛容な描き方ができたのかもしれない。

 戦況が優勢に働いていたからこそ、「ぶどう月」は愛国的な映画ではあっても、愛国映画というには穏やかな印象を受ける作品となったのかもしれない。映画は、「憎きドイツ」という内容よりも、「フランス万歳」的な内容となっている。

 「フランス万歳」的な内容は、老いた男性の娘がドイツ人に家を占領されながらも、夫を家の中に隠して、さらには機密書類を写すことを手助けするというエピソードに強く込められている。しかも、この娘は夫と自分の間に出来た子供の父親を明かさない(明かすと、夫が家に隠れ住んでいたことがばれてしまうから)で、周りのフランス人からドイツ人と通じていたと思われても秘密を隠し通すという強さを見せる。このエピソードがなければ、映画は30分短くなり、全体として引き締まったようにも思えるが、「ぶどう月」を愛国的な映画とするためには、必要なエピソードだったのだろう。戦争の傷跡も描いているために(戦闘で盲目となったぶどう畑の主人や、夫を失ったジプシー女性など)、反戦映画的な感じも受ける「ぶどう月」だが、この娘のエピソードによって戦時中らしい愛国的な作品としての屹立している。

 戦況が優勢だったという事情を差し引いても、この映画は私たちにフランスの「愛国的な映画」の一端を見せてくれる。面白いもので、愛国的な映画は国によって色合いが違うという。アメリカは勇猛果敢に自らの正義を謳い上げる内容のものが多く、日本は苦難に耐え忍んでがんばろうというものが多いという(日本の愛国的な映画はアメリカ人から見ると、反戦映画のように見えるという)。「ぶどう月」だけで、フランスの「愛国的な映画」がどういうものかを判断するのは早計に過ぎるというものだから、そこまでは語れない。ただ、「ぶどう月」は、フランスの、フランス人の素晴らしさを高らかに謳い上げている。