ロスコー・アーバックルとバスター・キートンのいたずら

 1918年6月から兵役についていたバスター・キートンは、1919年6月にアメリカに戻っている。そして、ロスコー・アーバックルのために作られたコミック・フィルム社に合流した。この会社は、ジョゼフ・スケンクが株主で、西海岸のマック・セネット・スタジオの近くを本拠地としていた。キートンはフォックスやワーナーから週給千ドルで誘われたが、週給250ドルでアーバックルと映画を製作する方を選んだという。

 キートンはスケンクを信頼していた。こんなエピソードがある。兵役についているときのキートンが、休暇でニューヨークのスケンクを訪ねると、やつれたキートンの姿を見たスケンクは黙って財布の中身を全部くれたのだという。またスケンクは、キートンの兵役期間中に両親に毎週25ドルの仕送りをしてくれていたという。

 その一方で、キートンとアーバックルはハリウッドの大物映画人たちに大して、多くのいたずらを仕掛けたというエピソードが残っている。ここで2つ紹介したい。

 まだあまり顔を知られていなかった頃のキートンとアーバックルは、パーティを開催することにして、パラマウントのボスであるアドルフ・ズーカーを招待した。キートンは無能な執事役を務め、アーバックルは無能な執事役のキートンを怒鳴りまくった。ズーカーはハラハラしながらパーティの時間を過ごした。食事のあとにある男が、「あの執事はバスター・キートンに似ているな」と言ったことからズーカーはやっといたずらであることに気づいたのだった。

 アーバックルの運転手に扮したキートンが、MGMのボスであるマーカス・ロウとアーバックルを車に乗せて走っていた。その車が線路の真ん中で止まってしまったところに、列車がやってきた。アーバックルは運転手役のキートンをののしるが、車は動かない。ついに目前まで列車がやってきてロウは「もう駄目だ」と思うが、列車は隣の線路を走っており、ロウたちを乗せた車の横を通り過ぎていった。あとで、運転手がキートンであることが明らかにされたのだった。

 また、キートンは野球好きで、毎年コメディ役者対二枚目男優の慈善試合をしたといわれている。

アメリカ映画の大教科書〈上〉 (新潮選書)

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