イタリアにおける映画製作会社の集中

 かつてスペクタクル映画で世界を席巻したイタリア映画は、この頃にはかつての勢いを失っていた。

 そんなイタリア映画界においての1919年の大きな出来事というと、イタリアの有力な銀行が出資によってイタリアの映画製作会社を集めて設立された「イタリア映画連合(UCI)」の結成だろう。

 衰退したイタリア映画界を救うために、ティベレ・フィルムのジョアキーノ・メケーリが、11の会社を乗っ取り、トラストを目指した。さらに、カエザル・フィルムのジュゼッペ・バラットロが、イタラとティベレを買い取ることで、完成された。

 こうして誕生したウニオーネ・チネマトグラフィカ・イタリアーナ(イタリア映画連合−UCI)は、1919年1月に発足され、銀行から莫大な資金を得た。

 イタリアのほとんどのスタジオを買収し、映画館チェーンも確保したUCIは、イタリアにブロック・ブッキング方式を導入した。独占のためには金を惜しげもなく使ったため、逆に信用を失ったと言われている。

 そんなUCIに対抗するように、1919年10月には青年実業家のエンリコ・フィオーリを中心とする新会社フェルトが設立された。ローマとトリノにスタジオを保有したフェルト社には、ステファノ・ピッタルーガという300館の劇場チェーンの興行者がバック・アップし、ピッタルーガもプロデューサーとして参加した。エミリオ・ギオーネといった監督、アルミランテ・マンツィーニといったスターがフェルトに参加した。

 こうした試みにもかかわらず、UCIもフェルトも、イタリア映画衰退を止められなかった。輸出の不振が主要な要因だと言われている。すでにスペクタクル映画はイタリアの独占ではなくなっており、アメリカ映画の勢いに世界は席巻されていた。UCIの大作である「ボルジア家」(1919)は成功したが、救世主とはならなかった。

 そんな中、古参のイタリア映画製作者であるエルンスト・マリア・パスクアーリが、1919年に死去している。