ソ連政府による映画の誕生

 1919年8月27日、レーニンソビエト政府による映画の誕生を決議する政令に署名し、すべては人民教育委員会の管轄下に置かれるようになった。映画の国有化宣言である。レーニンは、幅広い娯楽映画の輸入公開を許し、諸外国も市場拡大のため自国のソビエト映画公開を行った。

 この政令によって、映画製作は人民教育委員会の下の全ロシア写真映画局(VFKO)によって行われるようになり、すべての古い映画会社はなくなることになった。ウラジミル・ガルジンがVFKOの劇映画主任となっている。

 1919年9月1日に国立映画芸術学院(映画のための最初の研究機関)が設立され、ウラジミール・ガルジンが初代校長に選ばれている。この人物は、1914年から16年の間に40本ほどを演出した監督であり、ソビエト映画出発時の最も重要な人物といわれている。

 ガルジンは、モンタージュに熱狂するレフ・クレショフを、VFKOのニュース映画担当に推薦している。そのクレショフは、フィルムの再編集担当にもなり、有名な編集の実験(クレショフ効果)を手がけることになる。1919年にクレショフは、後にセルゲイ・エイゼンシュタインのカメラマンとなるティッセと東部戦線を撮影している。