映画評「男性と女性」

 原題「MALE AND FEMALE」 製作国アメリ
 パラマウント・ピクチャーズ製作・配給
 製作・監督セシル・B・デミル 脚本ジャニー・マクファーソン
 出演グロリア・スワンソン トーマス・ミーアン

 セシル・B・デミルは、1913年に「スコウマン」で映画監督としてデビューして以来、常にトップに君臨し続けた監督である。デミルの一家は演劇一家であり、舞台の著名人とも交流があった。そんなデミルは、舞台の映画化から歴史物へと興味を移していたが、歴史物は製作費がかかるため、会社側から現代物を撮るように要請され、しぶしぶ受け入れたといわれている。「男性と女性」も、そんな作品の1つといわれている。

 舞台はイギリス。執事のクライトンは、貴族の娘メアリーに恋をしているが、それはかなわぬ恋。しかし、貴族の家族とクライトンらが旅行中、船が座礁して無人島に流されて状況は一変する。無人島でも生きる術を知っているクライトンが王となり、そんなクライトンをメアリーは愛するようになる。2人は結婚しようとするが、船に救助され元の主従関係に戻ってしまう。2人はまだ愛し合っていたが、階級社会では決して結ばれることはないことを知っているクライトンはメイドと結婚して去っていく。

 「男性と女性」には(当時の基準で)刺激的なシーンがある。グロリア・スワンソンの入浴シーンがそれで、バスタオルなどでうまく隠しながら描かれている。セックスを売り物にして客を呼んでいるという意味で、この頃のデミルの作品は後に批判にさらされることになり、それはデミルに対しての評価にも影響していくだが、「男性と女性」は決してそれだけの映画ではない。

 「男性と女性」は環境が変われば、人間関係も変わることを極端な例で見せてくれる。しかも、決して説教臭くはなっていない。階級社会では怠惰な貴族の人々を一方的に批判してはいないし、執事のクライトンを過剰に持ち上げてもいない。特に、クライトンは自分が優位に立てる無人島の生活においては、その立場を利用して王として君臨してみせる。どちらがいいとか悪いとかではなく、環境の変化と人間関係の変化を「男性と女性」は描いている。

 クライトンとメアリーの恋愛も、熱く盛り上がって「愛こそすべて」という結論には至らない。もし、2人が幸せになるとしたら、それは無人島という環境が必要なことをクライトンは悟り、静かに去っていく。

 「男性と女性」には全編に渡り、主役のクライトンが持っている冷静さを保持した作品だ。決して、扇情的な入浴シーンだけを取り上げるべき映画ではない。ここには、人間関係を分析した冷静な視線が感じられる。この視線は、原作の舞台劇のものなのかもしれないが、改変すればいくらでも改変することはできるわけで、そうなっていないという意味で、デミルを始めとした作り手の功績は認めなければならないだろう。

 特に注目すべきは、字幕やセリフだ。聖書や詩を引用した字幕や荘重なセリフは、「男性と女性」に重々しさを加えることに成功している。

 映画のラスト。メイドと結婚したクライトンは、アメリカの大地で幸せそうに農業を営んでいることが示される。この展開から、階級社会のイギリスではなく、自由とチャンスの国のアメリカを称えているという感想もあった。確かに、そう取れるが、私はそれよりも「環境が変われば、人間関係も変わる」という「男性と女性」のテーマに合致したラストとして適切なように感じられた方が強かった。

 「男性と女性」は、デミルがただの娯楽監督ではないことを証明している作品である。

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