トッド・ブラウニングとロン・チャニーの「法の外」

 後に問題作「フリークス」(1932)を監督するトッド・ブラウニングは、「法の外」(1920)を監督している。この後、コンビを組んでいくことになる役者ロン・チャニーも出演している。

 「トッド」とはドイツ語で死を意味する言葉だが、本名ではない。本名はアルバート・ブラウニングといった。

 両親が聾唖者だったため、ジェスチャーと身体表現が豊かだったブラウニングは、巡業カーニバルの世界から映画界に入った。カーニバル時代には、道化・曲芸・ミンストレル(顔を黒く塗って黒人を演じるショー)・手錠脱出・生き埋め芸などを行う一方、呼び込みと雑用もこなすなんでも屋だったと言われている。

 1910年にニューヨークでコメディ舞台に立っていたところ、その観客だったバイオグラフ社喜劇俳優がD・W・グリフィスにブラウニングを推薦し、俳優として映画界入りした。その後、1915年に酔っ払い運転で事故を起こし、右足を三ヶ所骨折してから、映画監督に専念するようになった。

 メトロで数本を監督後、ユニバーサル傘下のブルーバード社において、女優プリシラ・ディーン主演のエキゾチックな冒険物語を作って名を上げ、ヒット作を送り出していた。