フランス映画界の停滞

 フランス映画界は停滞していた。第一次大戦によって映画製作が停滞していた時期に、国際市場のシェアをアメリカに奪われたこともある(1920年に上映された映画の80%以上は、アメリカ映画だったという)。また、国内市場が成熟しなかったということもあった。

 ジョルジュ・サドゥールは「世界映画全史」の中で次のように述べている。

 「大戦は、1910年まで世界中でもっとも現代的で、もっとも大規模だった撮影所を時代遅れなものにしていた。技術と産業の進歩によって、労働者も方式も置き去りにされた。とりわけ永遠の三角関係にもとづく古くさい題材は時代遅れでまったく価値を失い、もっとも優れた脚色は外国に譲られた・・・」

 パテ社はパテ=シネマとパテ・コンソルシウム・シネマの2社に分割され、ネガ・フィルムや焼付け工場・撮影所の運営が中心となっていくことになる。また、1920年から23年にかけて、スカグル社(フランス)、フィルム・ダルテ・イタリアーナ社(イタリア)、リテラリア社(ドイツ)、パテ・エクスチェンジ社(アメリカ)、パテ有限会社(イギリス)を清算していく。

 パテ・コンソルシウム社は、興行・配給を行う会社であり、製作はしなかった。また、パテ社の昔の作品の権利も保有した。巨大な資本と、政界、新聞界の支援を得たこの会社は、映画館のチェーン網を拡大させていく。

 パテ・シネマ社は、主な活動として生フィルム工場の運営を行った。アメリカの子会社はアメリカのシェア20%を、イギリスでは35%を占めた。また、家庭用の撮影カメラ「パテ・ベビー」の権利も持っていた。

 かつて世界の映画市場を独占する勢いだったパテ社の映画製作からの撤退は、同時にフランス映画界の衰退を示していた。

無声映画芸術の成熟―トーキーの跫音1919‐1929 (世界映画全史)

無声映画芸術の成熟―トーキーの跫音1919‐1929 (世界映画全史)