「カリガリ博士」 表現主義映画の代表作

 「カリガリ博士」の脚本を執筆したのは、カール・マイヤーとハンス・ヤノヴィッツの2人である。マイヤーはドイツ無声映画の中で最も個性の強い人物とも言われる。マイヤーは徴兵を避けるために、精神病を装ったこともあったという。シナリオの発案はヤノヴィッツだった。ヤノヴィッツは、1913年におきた性犯罪の犯人が、自分が目撃した人物ではないか思った経験があった。犯人は結局つかまらず、もしかしたら町には多くの殺人者が歩き回っているのではないかとヤノヴィッツが感じたのがシナリオの発案だったという。元々は表現主義を目指す作品として作られたわけではなく、2人の体験と想像が結びついて生まれたのだった。

 2人のシナリオはデクラ社のプロデューサーだったエーリッヒ・ポマーに採用され、映画化されることになった。「カリガリ博士」は、ポマーの名を国際的に有名にした最初の作品でもある。

 当初、「カリガリ博士」の監督はフリッツ・ラングに依頼されたが、ラングは他の作品を抱えていたために断った。しかし、ラングは物語の展開に観客がついてこられないだろうという提案を行い、その提案に従ってプロローグとエピローグが追加された。元々のマイヤーとヤノヴィッツの脚本は、プロイセン軍国主義を意識的に攻撃したものであり、これは後年のナチズムへの批判ともなったのだが、ラングの提案に基づいた追加により、権力は理性の番人として描かれるようになった。マイヤーとヤノヴィッツは反対したが、再変更はされなかった。

 ラストの改変について、岡田晋は「ドイツ映画史」の中で、次のように書いている。

 「ヤノウィッツやマイヤーのオリジナル・ストーリーが観客に受け入れられないのならば、殺人者カリガリを救済者カリガリに変えたのは、ほかならぬドイツの大衆自身である。(中略)『カリガリ博士』におけるオリジナル・ストーリーの改編は、政治的意図によるものではなく、政治をつくる大衆の心理的欲望の結果ではないだろうか」

 ラングの代わりに監督することになったのはロベルト・ヴィーネだった。ヴィーネにはこれといった作品もなく、大胆な人選だった。ジョルジュ・サドゥールは、ヴィーネは映画の仕事に対して熱心ではなく、「カリガリ博士」の真の監督は美術やセットの担当者たちだと述べている。当時、第一次大戦後の混乱期のドイツでは電気の割当が限られており、セットに光と影を絵の具で書くという方法が苦肉の策としてとられた。だが、この方法が表現主義的だと考えられて、採用されることになったというエピソードがある。デザインは、ヘルマン・ワルム、ワルター・ライマン、ワルター・レーリッヒの3人の表現主義の画家が担当した。遠近法を思い切りゆがめたセットや、誇張されたデザインの小道具が特徴的である。また、演技も不自然で、硬直したような動きを見せる。

カリガリ博士 オールインワン・DVD-BOOK(1)

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