ソ連 経済の混乱下での映画製作

 映画製作が政府の管理下に置かれるようになったソ連では、レフ・クレショフが1920年のポーランドとの戦いを撮影している(「赤色戦線にて」)。またクレショフはこの年、ウラジミル・ガルジンにより、国立映画学校の教授として招聘されている。国立映画学校では、イワン・ペレスチアーニ監督の「戦いの日日」(1920)が製作されている。

 ソヴィエトでは経済の混乱などから劇映画はあまり製作されなくなっていた。さらには、多くの映画人は亡命し、残った映画人は1910年の感覚だったといわれている。アレクサンドル・ラズムーニー監督、ゴーリキー原作の「母」(1920)は演出も演技も舞台装置も稚拙で、「1908年頃のスカグル社の作品のよう」(ジョルジュ・サドゥール)と称されている。

 一方で、「解放された労働の歌」「冬宮の占領」(1920)といった革命を扱った集団スペクタクル映画も作られた。「冬宮の占領」では8千人の人々や軍隊、巡洋艦が撮影に参加したという。人民による革命であることを表現するために、主人公はあくまでも「群集」だったという。

 またこの年には、全ウクライナ写真・映画管理局(VFUKU)が誕生している。