ハリウッドの笑いが止まった日 ロスコー・アーバックル事件

 当時のハリウッドでは毎夜パーティが開かれ、土曜の夜には25くらいのパーティが開かれていたと言われている。ハリウッドはまだ田舎で他に遊ぶ場所も無かったためや、女優を目指してハリウッドに多くの美女やってきていたためである(1919年から1929年までの間に、ハリウッドには約20万人の女性がやってきたといわれる)。

 喜劇俳優としてとどまるところを知らない人気を誇っていたロスコー・アーバックルは、特にパーティが好きな映画人の1人だった。

 1921年9月3日(バスター・キートンはこの日を「ハリウッドの笑いが止まった日」と呼んでいる)、パラマウント社と新たに結んだ300万ドルの契約を祝い、アーバックルはサンフランシスコのホテルでパーティを開いた。「セネットのスタジオの半数の男に毛じらみを移した女」として知られていた女優、ヴァージニア・ラップも出席していた(ラップはアーバックルを嫌っていたという)。アーバックルはラップを寝室に連れ込んだ。寝室からラップの巨大な悲鳴が聞こえ、そこにはほとんど全裸にされたラップがいたという。不幸にもラップは3日後に息を引き取る。死因は膀胱破裂による腹膜炎であった。寝室に連れ込まれたときトイレを我慢しており、そこにアーバックルの巨体がのしかかり、膀胱が破裂したと言われている。パラマウントのボスであるアドルフ・ズーカーはもみ消そうとしたが失敗し、アーバックルは強姦および殺人罪で起訴された。

 全国でアーバックル映画の排斥運動が起こった。事件には、「アーバックルの特大ペニスが、女の膀胱を突き破った」「シャンパンのボトルを突っ込んだ」といった尾ひれがついた。

 ハリウッドのボスたちはアーバックルに対して敵意に満ちた態度を取り続けたという。その裏には単純にラップについての事件以外のものもあったとも言われている。

 ラップの事件の2ヶ月前に、1人の地方検事が解任されていた。解任の理由は、4年前に映画会社から賄賂を受け取ったためで、その賄賂はアーバックルが関連した裁判を起訴しないようにしてもらうためだったという。また、ラップの事件の数週間前には、カール・レムリが東部の検閲官をハリウッドに呼び、ハリウッドのスキャンダルが根拠の無いものであることを主張したりもしていた。

 アーバックルに対する起訴を取り下げさせたり、ハリウッド全体のイメージを悪化しないようにしたりという努力をハリウッドのボスがしてきたのに、アーバックルが努力を台無しになってしまったというわけである。こういった事情がアーバックルをハリウッドのボスたちが擁護しなかった理由であったともいわれている。つまり、アレキザンダー・ウォーカーが「スターダム」に書いているように、「ハリウッドの指導者たちが決して許せないと感じたアーバックルの重罪とは、彼の不行跡のおかげで、これ以後自分たちが心ならずも大衆的な道徳家として振舞わざるを得ないといういまいましい立場に追いやられたことだった」のである。

 実際、アーバックルの事件は、世間のハリウッドに向ける目を厳しいものにした。以前から、検閲の動きが上がっていたが、その動きがより一層高まっていく。だが、1921年には32の州議会で検閲法案が検討されたが、30の法案は可決されなかったという。

スターダム―ハリウッド現象の光と影

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