バスター・キートンの短編と結婚

 バスター・キートンは、1921年の途中に配給会社をメトロからファースト・ナショナルへと変え、2巻物の短編コメディ製作を続けていた。

 メトロでは「化物屋敷」「ハード・ラック」「悪太郎」(1921)といった作品に出演している。

 ファースト・ナショナルへと配給会社が代わった後の最初の作品である「即席百人芸」(1921)は、トマス・H・インスがあらゆる役職に自分の名前を出したがるのをからかった作品だった。また、次の「キートンの船出」(1921)は、キートンが特に気に入っている作品だという。

 「即席百人芸」では、バスターは1人9役をつとめて、ミンストレル・ショーを演じる離れ業を披露している。現在では簡単に撮影できるが、当時は手回しカメラの時代で至難の業だったという。9つの穴をあけたマスクをレンズの前につけ、1つずつ開いてはフタをして撮影して、キートンが9人同時に登場するシーンを作った。

 マスクを考案したのはバスターだが、撮影はロスコー・アーバックルとの共演時代からのカメラマンであるエルジンレスリーが担当した。9回とも同じスピードで多重撮影するために、バンジョー弾きを1人連れてきて、そのリズムを頭に入れてカメラを回して見事に成功を収めた。キートンレスリーに「人間メトロノーム」の尊称を送ったという。

 ちなみにキートンは、演出においてコマ落としを使わなかった。当時のコメディでは通常の1秒16コマではなく、12コマから8コマで撮影して動きを早く見せるのが普通だったが、キートンは不自然で嘘っぽく見えると考えたのだった。

 この年は、もう1本の作品が製作される予定だった。「電気館」という名前のその映画は、キートンが撮影中に骨折したために撮影中止になっている。セットに作ったエスカレーターの調子が悪く、靴のカカトをステップに挟まれたキートンが、てっぺんまで運ばれてひっくり返り、くるぶしを骨折したのだった。この事故がきっかけで、特技監督としてハリウッドのナンバーワンと言われたフレッド・ガウリーが登用されるようになったという。「電気館」は、ストーリーは同じだが、まったく新しく撮り直されて、1922年に公開されている。

 骨折して休んでいる間、キートンは何もしていなかったわけではなかった。この間にキートンは、ナタリー・タルマッジを口説き落とし、結婚している。また、新しくリリアン・ウェイ・ステュディオを購入し、撮影の拠点を移している。

バスター・キートン自伝―わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界 (リュミエール叢書)

バスター・キートン自伝―わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界 (リュミエール叢書)