日本 映画に対する規制

 1921年、東京では警視庁による「興行場及興行取締規則」が制定されている。警視庁は、1917年に活動写真興行取締規則を制定していたが、これに代わる規則だった。

 規則は、演劇、寄席なども一括して扱ったものであり、映画と演劇の脚本は同一規定において取り扱われることになった。さらに、映画と演劇の検閲基準が規定化された。検閲の対象となるのは、「勧善懲悪に反するもの、嫌悪・卑猥・残酷すぎるもの、犯罪の手段を教え助長するもの、時事の風刺や政談のようなもの、国交親善を阻害するもの、教育上悪影響を与えるもの、公安風俗に反するものといった項目に該当するもの」といったものとなった。また、同規則によって、東京の映画館での立見席が禁止となっている。一方で地方では1930年頃まで椅子ではなく、雛壇式畳席が少なくなかったという。

 上記の規則は警視庁によるもので、地方については独自に行われていた。そのことに対して、映画関連の業者のみならず、政府も不満を持っていた。例として、文部省推薦フィルム「感化院の娘」(1921)が挙げられる。

 「感化院の娘」は、文部省推薦にも関わらず、神奈川県警察部や大阪府警で検閲により不許可となったのだった。こういったことから、検閲は内務省の手で画一的に行うべきという世論が形成されつつあった。その内務省は、1920年前後から検閲の全国的統一を掲げて政府に予算を要求していた。

 これらの出来事は、映画の影響力の大きさを物語るものでもある。ちなみに、映画の影響力は新聞にも及んでおり、1921年から東京朝日新聞が映画欄を夕刊に設けるようになっている。