映画評「アナトール」

 原題「THE AFFAIRS OR ANATOL」 製作国アメリ
 フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー製作 パラマウント・ピクチャーズ配給
 監督・製作セシル・B・デミル 原作アルトゥル・シュニッツラー 脚色ジーニー・マクファーソン
 出演ウォーレス・リード、グロリア・スワンソン、ビーブ・ダニエルズ、ワンダ・ホーリー

 困った女性を見ると助けずにはいられない金持ちの青年アナトールは、勝ち気な妻ヴィヴィアンと結婚したばかりだ。だが、むかし同じ学校に通っていたエミリーがアナトールの前に現れる。エミリーは今や初老の金持ちの愛人になっており、アナトールはエミリーをそんな環境から助け出してやろうとする。

 セックス・アピールを売り物にした社交界を描いた作品で大きな人気を呼んだ、デミル=スワンソンのコンビの作品だ。2人は「アナトール」を最後に、コンビを解消する。

 主役はスワンソンではなく、リードの方である。人の良いリードが、様々な女性たちと出会い、最終的に妻が最も自分のことを理解してくれていることを知るという展開の作品である。だが、この展開はあまりうまくいっていないように感じられる。最大の理由は、リード演じるアナトールとスワンソン演じるヴィヴィアンの関係が深く描かれていないためだ。2人が結婚したばかりであることは示されるが、2人が互いに思いやっていることを感じさせるものがないのだ。2人が演じるキャラクターはどこかフワフワしている。

 アナトールは3人の女性と出会う。1人は宝石が大好きで贅沢な生活にひたすら憧れる女性。1人は綺麗な洋服への誘惑に負けて、夫から預かった金を使ってしまう女性。1人は、舞台で妖婦役を演じるが、実生活では愛する夫の病気のために苦悩している女性。

 3人の女性たちは生きている。アナトールが「田舎には純真さがある!」と思い込んでいる姿を描く一方で、都会でも田舎でも人間の欲望は変わらないことを教えてくれる。また、舞台で妖婦役を演じている女性が、自分の住む部屋にもイメージ合うような調度品を揃えたりしている姿は、「公」の部分でのイメージの保持と、「私」の部分での心労の狭間の苦悩が伝わってくるかのようだ。

 ビーブ・ダニエルズが演じる妖婦役が、当時のハリウッドで多く映画された「ヴァンプもの」映画の登場人物のパロディ的な存在である点も指摘しておきたい。「愚者ありき」(1915)のセダ・バラは、妖婦を演じるにあたって、映画外でも映画内と同様の雰囲気を醸し出すために苦労したという。そんな妖婦を演じる女優も、1人の人間であることを描いて見せる。

 デミルの演出は気のせいか、覇気がなく平板だ。ストーリー的に、盛り上げるのが難しいこともあったのかもしれない。セックス・アピールの面でも、工夫が凝らされていない。そんな中、最も迫力あったのは、エミリーが物欲の虜だったことを知った後、自分が何から何までそろえてやったエミリーの部屋の家具などを、すべてぶち壊してしまうシーンだ。ここには、アナトールのエミリーへの怒り、自分自身の力不足への怒り、そして世の中思い通りにいくことばかりではないことへの怒りなどが満ちている。

 「アナトール」は、リードやスワンソンの映画としては物足りない。劇の展開としても中途半端だ。だが、アナトールを巡る3人の女性の生き生きとした姿が刻み込められている。いや、そこに価値があるのかもしれない。世の中には様々な女性たちがいるし、いろいろなことがある。そして、みんな欲望もあれば、苦悩もある人間である。そのことはしっかりと描かれている。