映画評「狂熱」

 原題「FIEVRE」 製作国フランス
 アルハンブラ・フィルム、ジュピター製作
 監督・脚本ルイ・デリュック 出演エーヴ・フランシス

 ルイ・デリュック賞の名で現在にも名を残しているルイ・デリュックによる、数少ない作品の1つ。デリュックは、1900年代初期の映画理論家でもあり、映画監督でもあった。デリュックの作品はほとんど失われてしまっており、「狂熱」も字幕が失われている。加えて、もともと40分弱の上映時間だったが、私が見たビデオは28分の短縮版であった。

 「フォトジェニー」という言葉がある。「映像詩」などとも訳されるが、「映画として美しさや魅力を追求したもの」という方がわかりやすいだろう。デリュックは、この「フォトジェニー」論を唱えた人物とされ、「狂熱」も「フォトジェニー」論を実践した作品といわれている。

 実際、字幕がなくても大方の意味がわかる「狂熱」は、正しく「映画」であると言えるのかもしれない。「映像で語る」ということを「狂熱」は実践している。その内容は、陳腐と言ってもいいだろう。痴話ゲンカの末の殺人事件という犬も喰わないような話と言ってもいい。それでも、字幕が失われたことで、いやでも映像だけでみるしかない私たちにとって、「映像で語ること」の意味を教えてくれる作品となっている。

 ほとんど、酒場のみを舞台にした内容は、演劇の映画版のように感じられる。だが、クロース・アップとメディアム・ショットをたくみに組み合わせ、演劇のようにセリフがなければ理解することができないものではなく、映像のみで語ることに成功している。

 正直に言うと、私は「フォトジェニー」というものがよくわからないでいる。「狂熱」も字幕なしで物語を語るという意味では、「なるほど」と思う。だが、それ以上の意味で、「狂熱」が「フォトジェニー」を実践した作品といえるのかどうかはよくわからない。

狂熱 [VHS]

狂熱 [VHS]