ウィル・H・ヘイズの全米映画製作配給業者協会(MPPDA)会長就任

 ハリウッドは批判に対抗する必要があった。対抗作の1つとして、映画業界の不道徳性を非難する声に対抗するための自主検閲機関として1919年に設立されていた全米映画製作配給業者協会(MPPDA)の会長に、ウィル・H・ヘイズを招いている。

 ヘイズは、共和党全国委員会の元会長であり、インディアナ州の長老教会の長老でもあった。当時、ヘイズはウォレン・ハーディング内閣の郵政長官だったが、その職を辞任してMPPDAの会長に就任している。ちなみに、ヘイズは後にハーディング内閣時代の収賄容疑を受けている。

 ヘイズの契約は5年だったが、結局1945年に引退するまで、映画産業の代弁者・紛争処理者・裁定者として活躍した。その権力の大きさから、ハリウッド人はMPPDAのことをヘイズ・オフィスと、ヘイズのことをツァー(皇帝)と呼んだという。

 ヘイズ・オフィスが最初に決めた倫理基準に、「キス・シーンは、フィルムの長さが30センチ以上にわたってはならない」というものがあり、アメリカではしばらく間、アメリカ国内と国外用にキス・シーンを2回撮影したという。

 MPPDAは、アメリカの主要都市32に支部を開設。映画館獲得競争でMPPDAの会員を支援した。アメリカ映画の輸入を禁止していたメキシコへの働きかけなども行った。MPPDAの会員のために、抗議が寄せられることなく映画化できる小説や戯曲を調査したり、法律部を設立して婦人団体や教会と友好関係を保つために活動を行ったりした。

 MPPDAとヘイズによって、スキャンダルが重大な結果を生むことを阻止することに成功し、各州で実施されていた検閲法が可決されないように努力した(そのかわり自主検閲を行った)。反トラストで訴えられていたパラマウントを助ける努力もして、成功した(アドルフ・ズーカーは興行と製作を別会社に分離するも、1930年には合併している)。

 MPPDAは、一種のコンツェルンであり、大手映画会社は互いに協力し合っていたといわれている。