パラマウントの黄金期 スワンソンとヴァレンティノ

 1922年当時のパラマウントは、人気スターのグロリア・スワンソンルドルフ・ヴァレンティノを抱え、「スター・システム」を確立し、黄金時代を迎えていた。さらにこの年、パラマウントジェシー・L・ラスキーは、当時28歳のドイツ人女優ポーラ・ネグリをハリウッドへ招いている。ネグリがハリウッドに到着したときに、パラマウントは「スワンソンの最大のライバル現る!」と宣伝している。

 スワンソンとヴァレンティノは「巨巌の彼方」(1922)で1度だけ共演している。この作品は、エリノア・グリンが脚本を執筆し、スクリーン内外におけるヴァレンティノの宣伝の立案も行ったという。女性にキスするときは手の甲ではなく手の平にするようにヴァレンティノに指導したのも、グリンといわれる。また、ヴァレンティノの名前で公表された文章のいくつかをグリンが代筆し、そこにはロマンスの大切さが書かれたという。

 「巨巌の彼方」でヴァレンティノとスワンソンは仲良くなったが、ヴァレンティノはすでに前の映画で美術監督を務めたナターシャ・ランボヴァと結婚することに決めていた。ヴァレンティノにとって2度目の結婚である。ナターシャとヴァレンティノは「鷹の巣」と呼ばれる大邸宅で王族のような派手な暮らしを始めた。

 ヴァレンティノは男性に人気がなく、その点がダグラス・フェアバンクスと違っていた。ヴァレンティノのキザな部分(アンクレットをしたり、香水をつけたりしていた)がアメリカの純朴なマッチョには嫌われたという。現在の妻と前妻がレズビアンだという噂が流れると、新聞は「おかま野郎」と呼んだと言われている。ナターシャが離婚するときに、「通常の結婚生活はなかった」と語り、その噂はさらに広がった。


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