不振が続くイタリア映画

 1922年は、ムッソリーニが政権についた年である。ムッソリーニ政権は、出版検閲などを行ったが、映画に対する圧力はまだなかった。だが、新しい発想は生まれず、映画界は史劇大作のみをつくるのみだったという。活躍の場がない若手の監督たちは、外国で働くようになった。

 イタリア映画製作界は相変わらずの不振だった。製作本数は1921年の約100本から、約50へと半減している。そんな中、「カビリア」(1914)を監督したジョヴァンニ・パストローネが引退している。ルイジ・マッジ、バルダッサーレ・ネグローニといったイタリア映画黄金期を支えた映画人たちも、引退していく。

 イタリア映画界のトラストを目標としていた映画会社UCIは、放漫経営によって経営危機に陥っている。UCIに所属していた脚本家・監督であるルチオ・ダンブラは、商業主義に反対して、UCIの実力者バラットロと衝突した。カゼリーニは、映画界を去り、演劇と文学の世界に戻っている。1935年に映画界に戻り、脚本家として活動を行った。