ルドルフ・ヴァレンティノの反乱とエリノア・グリン

 ハリウッドで最高のスターの1人だったルドルフ・ヴァレンティノは、所属する映画会社パラマウントの自身への処遇に不満を持ち、裁判にまでなっていた。

 ヴァレンティノは、ダンスの公演や美顔クリーム会社の宣伝、自伝の出版、各地の映画館での舞台挨拶、ダンス興行などで生活の糧を得て暮らした。また、ヨーロッパ旅行も行ったという。そんなヴァレンティノに対しては怠惰だという批判もあったが、ヴァレンティノ自身は「いい映画を作りたいだけ」と反論していた。

 1923年の暮れ、会社から7千5百ドルの週給と「ボーケール」(1924)の支配権を得るという全面勝利を手にすることになる。

 この頃、のちに「イット」という流行語を生み出すエリノア・グリンは、ライターとしてパラマウントに招かれていたが、1923年にMGMに移籍している。

 ハリウッドのスターは、そんなグリンからセクシーな所作の指導を受けたと言われている。ルドルフ・ヴァレンティノに対しては、手の甲ではなく手の平にキスをする方法を伝授したという。